世界と僕は物理的でない仕方でもつながっている

更新してないのに Twitter から見にきてくれる人がいて、なんだかありがたいですね。無償の愛というか、愛じゃないですけど、確実な利益を保証されずとも人は動くのだなあとか。いやこの日記が価値あるものだ愛されているのだと言いたいのではなく、やはり毎日、賭け、なのだと思います。なんでもかんでも合理性だけで動いてるわけじゃないぞっていう。


風邪で寝てました。僕は喉から入って、喉が少し痛いなあと思っていると鼻水が出てきて、だるくなって身体のふしぶしが少し痛んでくる。微熱だが熱が出ている時分は、他方の手を添えている自分の腕が、異常な質量をもつ鉄の棒に似たなにかに感じられて、それは小さいころから変わらない。これで眠ったりすると奇妙な悪夢を見ることになる。無数の歯車が出てきて、そこを通らなきゃならないとか。今回は悪夢はなく、腕が鉄棒なら脚はどうなるだろう、とか、実験したりしていましたが。
微熱だったからだと思うが寝たらだいぶよくなりました。翌朝は起きたらまだ頭がすこし痛くてよどんでて、さらに寝たらほとんど快適な生活に困らないくらいには改善しました。それでまあ作業したり、まあだいたいパソコンの前にいたのですが。それでツイッター見たり、ダウンロードしたり、メールチェックしたり、メール書いたり。パソコンを閉じてギリシア語の予習をしたり(今ここだった)。
しかしまあ、そうして一日じゅう家にこもっていると、なんだか自分が取り残されたような気になって、みょうに焦ったり、あるいはやたらと諦めて受動的自暴自棄になったりもする。もう人生なんて終わってもいいやとか。何から取り残されたのか? それははっきりしない。大学の授業。部活。具体的にはそういうものが対象になるのだろう。でも、こうした真空状態で生活していると、もっとなにか抽象的ななにかに――いわば、世界から――取り残されたのだ、そういうような気にもなる。
ある程度はそれもあたっている。最近の僕にとって、世界といえば大学の授業と部活(とバイト)、これだけだ。だから、この一日ちょっと、僕は「世界」と接触がなかった。これは確かに言える。
でも、「取り残された」というのは早計にすぎる。世界と隔絶したといってもたかが一日ていどのことだし、不在の僕を世界につなぎとめるものをあちら側は用意しているはずだ。ようするに一日いなかったからといって、みんなが僕のことをきれいさっぱり忘れてしまったり、僕の名前が名簿から削除されたりするわけじゃあない。僕だって、いまギリシア語の準備をするのは、一日後のギリシア語の授業という世界の一部に、自らをつなぎ止めるためだ(でもある)。日数にこだわるわけではないが、一日のあいだ世界から姿を消したからといって、僕が世界から完全に脱落したことにはならない。復帰できるようになったら復帰できる場所にてきとうに復帰すればいいわけだ。


とまあ、そういうことなのであった。書いてると自然にニュートラルな方向にもっていけるのでよいですね。言語というのは生来論理的にできているのだと思う。いや、でも、書いててわるいほう悪いほうに向かっちゃう人もいるので、それはどうなんだろう。やはり言語の構造とかではなくて書く人の気質によるんだろうか。