言語ゲームと人生の意味

部活の大きなイベント(運動部だったらなんらかの大会にあたると考えてもらえば大きなずれはないはず)後、飲み。その後8人くらいでAM5時までカラオケ。家に着いたのが7時で、起きたのが15時半。
カラオケのあと簡単な食事をおえて、駅のホームに向かう途中、「生きる意味がわからなくなった」そういう気がした。
人生に意味などない。意味とは人間が勝手にものごとに付与するものであって。私流にいえばア・プリオリな意味などというものはありえない。まあそういう話はよくある。大学の哲学科に入るようなひとはたいがいそういう「最終理論」を得て、自分が他の人よりなにか真理を得たかのように思うようだ。僕もそういうところあったし周囲の何人かをみてもわりとそれは少なくないように思う。相対主義とかさ。唯物論とか。
でもそういう話ではない。意味とは人間が恣意的につけるものである、それはポジティヴな意味で正しい。少なくともそういうセンスにおいては「意味」はあるといえるし、そして今いっている「人生の意味」とはそのセンスにおける意味だろうと思う。また、意味とは人間の恣意的な意味付けなんだとはいっても、でもその恣意的な意味づけがまったくあなた自身だけの裁量によって自由に行われるわけではないことも注意しておくべきだろう。つまり、意味は、言語と同じように、社会において共有される。意味は、みんなで決める。いやむしろ直接民主政やら社会契約といったものよりは、いつのまにか決まってた、といった感じだけど。
さてこの「人生の意味」とは何か、ということだが、つまりなんらかの社会、組織の中で役割を持ち、必要とされ、なんらかの貢献を行う、ということが人生を有意味にする条件だと思われる。つまり。なんらかの社会に属し、そのなかで有意味な働きをするということ。それが人間の生における意味なのだと。そして、今朝の僕は、部活というひとつの社会の、このイベントという、時間的に区切られたより小さな社会のなかで、ある明確な役割を得ていた(前回の日記参照)。そこから解放されたことで、“意味を喪失した”そのように感じられたんだろう。意味とはすなわち、有意味な立場ということである。
家に帰って寝て、眼が覚めた後、しばらく布団のうえで泳いでいた。そのあいだじゅう、あの人のことを思い浮かべていた(「あの人」ということで俺が指す対象は、ついさいきん変わった。5月20日の日記参照)。帰りの電車ではさきのイベントそれ以降のことばかり思い浮かべていたのだが。それから、この先のことに思いが移って、明日の予習をしなきゃな、と考えた。それが「人生の意味」の問題と重なって、気づいたのだった。明日の予習を考え始めた僕は、すでに人生の意味を喪失した僕を抜け出していた。意味が満ち満ちているというわけにはいかないが、くるぶしまでひたされてるくらいの感じはあった。ここからニュートラルな日常に戻る。勉強が主な仕事である僕に戻る。でも、戻った先の風景は、たぶんすこしずつ違っている。