哲学書を読む意味(個人用まとめ)

哲学書を読まなくても哲学はできる。まあそれはそうだ。哲学とはひたすら厳密に考えようとすることなので(俺定義)、そこになんらかの特別な知識が必要ということはない。でもあるていど自分で考えてくると、他の人の考えを借りた方が進みがよくなるということはある。だから一面では哲学書は補助具でしかない。でもまあ補助具だからといってバカにしてはいけない。昔の哲学者はびっくりするようなことを真顔で主張していて、たとえばスピノザとかライプニッツなんかはそうだと思う。しかし、彼らの議論は、ただ信じがたいというだけで斥けられるものか。そうだとしたら、それって「哲学的」な態度じゃないよね。好き嫌いのレベルだよね。というわけで、哲学書を読む意義のひとつは、こういうブッ飛んだ議論たちに対してどう対処するか、ということを考える機会を得ること、である。大家だろうがなんだろうが論破しちゃっていいわけです(まあ現実そうかんたんにはいかないわけですが。ていうか古い哲学者ほどとどめを刺すのがむずかしい気がする)。しかしやつらはなぜこうも常軌を逸したことばかり言いだすのか。時代の制約。宗教的背景。文化の違いってすごいやね。まあそういう話でもある。だけど、現代に生きるわたしたちもまた時代の制約を被ってるわけで、だから事実スピノザとかライプニッツのような発想がでてこないわけで、だからこそわれわれは彼らのような「ブッ飛んだ」ことを、おおまじめに、詳細にわたって長々と展開するひとの著作を読んで実際ブッ飛んだり新たな着想を得たり自分の考えを相対化して見つめ直したりというような恩恵にもあずかれるわけで。
すいません、スピノザライプニッツも直接読んだことありません。デカルトはあるけれど、あれはなかなかイライラしますね。議論の相手としてはいい教材なんだろうけど。神が完全だなんて誰が言った!

うーん、ただ、哲学に興味がある!という人がいきなり彼らの著作をよむのがよい入り方かというと、そうでもない気がする。哲学書は、残念ながら、基本的には業界人(インサイダー)のものだと思う。「こんな間違ったこと言ってる人の著作を読みなおしてなんの意味があるんだ権威主義か?」という感想を抱かれるとちょっといやですね。