自らを危機にさらせ

私はふだん実存のない生活をおくっている。淡々と生きている。特別の事件もなく、多少あったとしても起こる感情は「つまらない」だの「めんどくさい」だのといった居心地の悪さが主なものである。生活のしかたもそうだが物事の受け入れ方もだいぶ即物的というか冷淡というかフラットでニュートラルであるしそうあろうと意識的になってさえいる。平安を志向している。ゴータマせんせいの教説に共感する。
ひとが恋愛の話をする。実体験を語る。特定のひとりに対し、あれほどまでに……うーんうまい間接的表現が見つからない。客観的心理学的には、異常な反応を示すとか言えるんだろう。自分流の表現を使えば特定の誰かを神の領域に据えること。ある人は別次元に置く、とか表現していた。まあいい。ともかくそういう状況、そういう世界がどこかにあって(実に恋愛について即物的に、かつ内在的に記述するのはむずかしいな)、そいつは自分にもある程度「わかる」話だったりする。一応の経験はあるから。
そういう話を聞いた時、あるいはそういう話によって自分のそういう体験が思い起こされたとき、いつものフラットな自分はゆさぶりをかけられる。これでいいのかと。フラットな安住する自分でよいのだろうかと。それってほんとうの人生じゃないのではないかとか、そんな気がしてくる。
もちろん、それでもなおフラットな自分を擁護する立場は可能である。まさに恋愛のようなものこそが平安を乱す存在の最たるものではないか。そんなものを求める気持ちは気を入れて断ち切ってしまうべきである。
こういう正当化は、つまり平安な生活こそが求めるべき生活である、という前提に依存している。でも僕はこうも思う。自らを危機にさらすような生活もまた、味のあるものではないか。たとえば旅の醍醐味はそういうものであったりもする。自分の価値観が激しくゆらいで、立ってる地面がまるでたよりのないものに思われてくる経験。それは、自分の成長に寄与するからよいとかいう以前に、それ自身大きな魅力をもっているものだと思う。いや、というか、今たったいまの自分は、そういうものを求めている。欲している。事件が起きたい。
つまり俺は、自らを危険にさらすことの普遍的価値について語るよりは、それを自らの限定的状況に起因するものとして、自らの目下の状況を説明してくれるものとして語ろうとしている。もうちょっと走りまわってもよいのではないか。大きな声を出してもよいのではないか。ストレス? フラストレーション? たぶんそういうものだ。いやわかんねえけど。自己実現? もしかしたらそういうものも入ってくるのかもしれない。
なんでも心理学に還元するのはセンスねぇなと思うけれども、でも今はべつに普遍的価値を扱ってるわけじゃない。単に、自らを危険にさらすことに魅力を感ずる自分があって、それを自らの状況にすり合わせて考えて、今後の適切な行動の指標を得ようとしているのだ。
自らを危険にさらす、と繰り返してきたけれどもっと広い話かもしれない。感情が激しく動くみたいな。もっと不安定な世界のほうが心地よいみたいな。でもそれがなんでいいのかはよくわからない。バランス? 飽き? まあ涅槃にでも入らない限りは同じところにばかり安住してもられないって感じなのかな。ちっと暴れることを志向してみようか。できるだけでいいので。
ちなみに、こういうことを書くのは日曜日でだらだらまとまったことをせず家にいたから、というのもある。散歩いくか。あと詩作というのも考慮したい。