the significance of literature

小説は暇つぶし以上のものではない、という信念を、じつはいまだにもっている。そして僕にはつぶす暇はない。いや俺が特別に忙しいアピールしてるのではなく、一般に、つぶすべき暇などありえない。時間はいつも有意義に使われるべきである。ゆえに、単に時間を消費しやり過ごすだけであるから小説を読むべきではない。そういう推論が自らの中で成り立っている。
ちなみに詩は単なる暇つぶしではない。しかし僕が詩をどのように読むかといえば、自らがいま覚えている感覚にすり合わせるような読み方をしている。あるいは空虚な自分の胸に感情を充填するかのような読み方。前者は、一種、自分の共感できることばを歌うバンドを探す、そういう鑑賞態度にも似ていて、そういうのはよくないと思う。だって自分の感覚にぴったりくる歌は実のところ見つからないのだから、それを求めることはいたずらにフラストレーションをためる作業に他ならない。後者はどうだろう。具体的には『伊藤比呂美詩集』である。そういう読み方をするのは。例がひとつしか挙がらないのは私の詩集ライブラリーが極端に貧しいからである。いや、だとしたら、それは詩一般に求めるべき効用ではないのではないか? 単に伊藤比呂美の詩がそういう需要に応えてくれるということではないのだろうか。うーん。だが、同じ伊藤比呂美さんでも小説だったら読まないかもなあ。
実は話の本質はここにある。つまり、小説はじれったいのである。小説が有意義なことを書いていないとは思わない。でも、無駄な文章が多すぎる。サビに行くまでが長すぎる。本を読むのが遅い私はサビに行くまでに数日かかるし、集中して読んでも数時間かかる。しかもサビはすぐ終わってしまう。そう考えると、小説というのはひどく不効率な芸術のように思われるのだ。
そもそも僕は飽きっぽい性分なので、自分の感覚に合うかな、とセレクトした小説を読み始める、読み進めているうち気が変わってきて、べつに今俺はこれを欲してはいないのではないか、そういう気になる。つまり、俺は芸術をなにか投薬のように考えているのか。だとすれば小説は、気の短い人には適用されないお薬だということになるか。
でも、どこか諦めきれない。小説を読むこと自体に向き不向きとかあるんだろうか。小説を読むというのは、もっと、万人がすべきことのような、普遍的な意味のある行為なのではないだろうか……。
そこで、とりあえず先の投薬モデルを見直してみる。詩は、特効薬である。応急処置である。飲んだらすぐ効く、すぐ効果があらわれて、その場で救ってくれる。これに対比して書けば、小説は習慣的に飲む薬ということになろうか。持病の発症を抑えるための薬。あるいはサプリメントや栄養剤のような。小説は基礎体力をつくる。それが教養ってやつの意味か。教養はたくわえであり、そなえとなる。か?
しかし小説の長さと教養性と、どうつながるのだろうか。ただ小説の形式に、鑑賞の態度をすり合わせられるようにつじつま合わせただけじゃないか。というわけでこの説はあんまうまくいってないように見える。あとは実際に読みながら考えよう。小説という形式でなければ表現できないことがある、くらいは概念的にもわかるし。