ケチくさい話

やっぱ俺も劣等感と優越感のはざまに生きてる。あいかわらず。がんばってる人がいるのはいい。それは別に困らない。いや困るとかいう話ではないが、俺の心のさまたげにもならない。しかし自分と同じ土俵でがんばってる人、となると話は別である。いやそれだけではまだだいじょうぶだ。問題は年下が同じ土俵でがんばってる場合であり、俺を追い越しそう乃至すでに軽々と追い越してる場合である。たとえばとある高校生がニーチェ善悪の彼岸』を読んでます、とツイッターに書くとするよ。俺がそれを目にするとするよ。すると俺はうろたえるのである。高校生が哲学の原著を読んでるとな!
このときの俺のうろたえの内実ははっきりしない。追い越されるのを恐れてる。それは確かにある。でもなんのために? 哲学の勉強で後輩に抜かれたといって、なんの不都合があるんだろうか。べつに哲学の勉強の成果をアイデンティティにして支えにして生きてるわけじゃなかろう。基本的に自らのアイデンティティを自らの外部に求めることは、その脆弱さゆえにおすすめできないし個人的にも好まない。そういうキャラクター付けは他者にアピールするものではあるが、自分にとってはあまり中身の伴わないものだったりする。確かに自己は他者を経由して投射されたもの、他者は自己の鏡*1、それゆえ自分が他者にどう受け取られるかを気にするのも大事、なんだろうが、でも単に他者にどういう印象を与えるかよりは、自分になにができるかが広がったほうが楽しいだろうなと思う。これは多少マッチョで楽観的な人生観かもしれない。
でなんだっけ。だから、上記のような考え方に沿えば、ぼくのアイデンティティは読書量に求められるべきではない。っていうか読書量で勝負できるほど読書もしてないし、そういう面に訴えるのは単に敗率を高めるだけである。しかも俺はべつに勝負したくもない。そもそも勝負すること自体が苦悩の入口ではないか? 比べることから苦悩の一切は発するのではないか?
だが社会の中に生きる以上、いくらかの比較や勝負からは逃れられないものなのだと思う……。というか、事実として俺は比べるということをやっており、ともかくもその内実がどのようになっているかをはっきりさせておきたい。判断はそっからである。
だんだん勢い衰えてきてる。でまあさきほどのニーチェ高校生の例にでも戻ろうか。順序おかしいけど。つまり、さきほどのニーチェを読んでる高校生とは 4 年前の俺のことなのであった。読んでることをツイッターなりで言ったことはないけど、当時ツイッターやってたら言ってなかったとも限らないな。所有によってアイデンティティを確保しようとしてた最も顕著な時期だったし*2。ところで、当時の俺のニーチェ理解といえば完全にφいわゆる空虚といったもので、つまり俺は内容を理解することなく、ほとんどページの右上から左下まで目にさらす、というにかなり近い作業を行っていたことを告白しなければならない。ならないっちゅうか。当時は読む=目を通す、だと思ってたし、たんなる読了ということに価値を認めていたので、つまり「読む」ってのは下はそういうレヴェルから存在してるのだ。だから単に「読んでる」「読んだ」と言ったところでいきなりビビる必要はないのだ。すごい皮相な読みかたかも知れないしぃー。
だけど問題は終わらない。そういう皮相な読みかたで哲学書を読んでる高校生というのはいくらでもいて、そういうのには落ち着いて化けの皮はがせばビビらずに済む。しかし世間にはまともに哲学書を読んでまともに理解し認識を広げてる高校生もきっといるはずで、それは理想的な存在者などではない。いるとこにはいる。そして俺はそういう存在にこそうろたえる。つまり俺はこれからもやはりうろたえる機会に静かにおびえながら暮らすことになってしまう。それは嫌だ。
思うに、おそらく俺は競争に負けることを恐れているのではない。でもじゃーなんなんだろう。単に競争なんだったら、競争なんてためにならないよ比べるなら自分と比べたほうが高いとこいけるよ、と助言すればとりあえず解決するように見える。けどなんだろう。その件の発言したときの感じがだいぶ薄れてしまっているので取っ掛かりを失った状態にある。


とりあえずこれはこれで適当にまとめてしまおう。ことばはさまざまな意味を込めて使われる。ひとくちに「数学」といっても、中学の数学と大学の数学ではだいぶ中身が違う(と思う)。「バカ」という言葉は罵倒にもなるし、単にじゃれてるだけかもしれない。ところで、僕がひとの言葉を理解するとき、(特にツイッターのような、情報の少ない場面では)、ついつい自分の言葉の使用を基準にして解釈してしまう。つまり誰かが数学といえばそれは線型代数とか微積分(まあちゃんと勉強したことないけど)のようなもの意味し、バカといえば貶めの言葉になる。哲学書を読んだというのはそこにひょうg……いやなんか恥ずかしくなってきたのでやめる。さいきん恥ずかしいこと言ってばかりである。なんだろう。ともかく、ことばに込める意味はひとによって異なる。だから他の人のことばを読んだり聞いたりするときは、ていねいに確認をとったりしないと理解できないし、それがめんどうな場合は解釈を放棄してしまったほうがいい。不用意に解釈すると悩みが増える。

*1:いやよく意味わかってない

*2:そういえば、上では混同してたけど、モノによって「アイデンティティを確保する」ことと「自らをキャラクター付ける」こととは異なる。それは目的と手段の違いである。前者は、極端な表現では、○○を愛好してることが自分の存在意義であり、たとえば異性と付き合うことになれば、自分は○○を愛好してることによって愛されている、ことになる。いや言い過ぎかもしれないがそんなかんじ。後者は、モノとは独立に存在するアイデンティティへの付随物であり、付け外し可能である。いわばスパイス(なんかこの表現むしょうにはずかしい)。