リアルな知識?

ロジバンをちょっと覗いてみた。ロジバン/形態と品詞 - Wikibooksによれば、人工言語ロジバンの単語は 1350+200=1550 個ほどあるらしい。それらをすべて学習することを考えるとクラクラするが、そいつはただ文字面だけ見てるからで、実感している以上にわれわれがもってる単語の数は多いようだ。中学までの英語でできるコミュニケーションなんて、ほんと、地を這うようなレヴェルだったと振り返るが*1、それでもまあ卒業までに 1000 くらいは習ってるらしい(検索結果・数値には揺れあり)。大学受験だと 5000 とかだっけ。いや自家中毒な受験生だったんでそのへんよく知らないけど、そういうレヴェルで憶えてても英文読解にはしょっちゅう不自由を覚えるわけで、そう考えると 1550 ってのは「さほどでもない」数ではあるようである。仮に中 1 から英語と同じ重みづけで勉強したとすれば、高 1 くらいでぜんぶ網羅できてしまうわけで。まあ英語の場合はカタカナ語から類推できるものが多かったとか、あるけれど。
ところでそこには本題はなくて、僕がロジバンを学ぶにあたり抵抗を感じたのは、「 1500 もの“つくりもの”の単語を学ぶ」ことへの空虚感に、であった。たとえば klama は「来る」を意味する語のようだが、ロジバンの単語というのはいろんな言語の単語をごちゃまぜにミックスしたものなのだという。すると、それを知ったからどうだというのか、という感想が浮かんでくる。ただの記号ではないか。いや確かに日本語の「来る」だって英語の come だって、同様に記号には違いないのだが、それを学ぶことは日本語や英語といった「リアルな」対象事象にかんして何かを教えてくれる。気がする。翻ってロジバンの単語を学ぶことは、ロジバンなる人工的な、したがってアンリアルで恣意的な構築物を使う道具となるだけで、なんら世界に関する認識を拡張してくれるものではない。それはちょうど、私的言語が言語の資格を持たないのと同じように*2
これは小説を読む意義への懐疑にもつながっている。小説とはつまるところ虚構であり、誰かの想像でしかない。それは僕やあなたや彼らやわれわれの住むこの世界とは関係がなく、小説を読むことはこの世界に関してなにかを教えてくれるものではない。より煽りっぽく言えば、ウソばかり何百ページも読んでなにが楽しいのか、ということである。
そうしたことを、僕はほとんど真剣に信じている。だが、同時に、上に述べたような立場は明らかに不条理であるとも思う。小説を読むことに意味がないなら、文学は単なる暇つぶしでしかない。でもそんなはずはない。そんなはずはないじゃないか……。小説なんてつまりひとを楽しませればそれでいいんだろうか、エンターテインメントの一人勝ちなのだろうか。そういうわけじゃないだろう。楽しくなくても価値のある小説はあるし、また小説はわれわれの認識を開いてくれさえもする、気がする。それは小説に部分的に一般論が含まれてるからじゃないだろうか……、いや、まあ、それはそうかもしれないが、言葉を尽くしても語りきれないものを小説は物語を通していとも明瞭に示してみせる、とか、そういうことも、ない話じゃあない、とも思われる。
つまり、俺もまた事象をそれ単独で云々するという誤りに陥ってる、ということになりそうだ。さきほどの klama は、それ自身では空虚な取り決めにすぎないと言えるかもしれない。しかし、その単語はロジバンという一個の言語に結びついている。ロジバンは「たかが」人工言語だが、けっこう面白い特徴をもっていて、「万能な記述形態として知られる述語論理が文法の基盤をなす」ということらしい*3。もうおわかりだろう(説明めんどくさくなった)。つまり、ロジバンはコミュニケーションの手段であると同時に言語一般について考えるためのモデルでもあり、ロジバンを学ぶことは言語というリアルな実在物についての理解を深めることにもなる。だから、 klama という語を知ることもじつは無駄ではない。空虚な取り決めは、間接的に実在にも接続しているのである……。
というまあ話であったのだが、より自分に引き合わせていうと、どうも近頃ここ数年の自分は、リアルというものに関してずいぶん甘く浅く捉えているふしがある。木は実在する。日本語は実在する。ベトナム語は実在する。エスペラントは実在する。でもロジバンは実在しない。石原慎太郎は実在する。読売新聞は実在する。虚構新聞は実在しない……気がする。2ちゃんねるは実在するな。アルファルファモザイクも実在する。お札の夏目漱石は実在する。小説家の夏目漱石も、実在した。私は実在するというには特殊だな。私の知り合いもみんな実在すると言いたいところだが、あまり実在しない。……つまり、こういうことである。僕のいう「実在する」というのは、その対象がどれほど広く社会において認められているか、ということにかなり依存している。公共性の偏重。いろんな小説のストーリーは、それぞれ、いわば世界にいっこしかないわけで、そんな公共性のないものの実在を俺は認めるわけにはいかないのである。自分の知り合いももちろん存在するものとして付き合っているが(変な話だ!)、でも世界じゅうの人が彼らを知っているわけではないので、実在するというにははばかられるのである。ちなみに僕の世界史重視もここに根っこがある。たんなる一国の歴史であるかぎり日本史の学習には価値がない。^^;
というわけで、僕のことばの使い方にかなりの偏りがあることがわかった。実在するとは、公共に認められていることを言うらしいのである。しかも、僕の中では実在するものこそ価値がある。というか、実在するものについて知識を得ることが真正な意味で「知る」ことなのである。……と、こうまとめてしまうとどうも当然なほど正しいことを言ってるようにも見えるのだが、とにかく僕の見方に重大な錯誤が潜んでることははっきりしたと思う。どういう錯誤か、というのは(疲れたので)また日を改めて考えたいところ。

*1:と誇らしく振り返るほど英語ができるようになったわけではないのだが

*2:勉強不足

*3:Wikipedia参照