人生は計画的に

だるい。いや気だるさはないが、少々無気力である。なにもしない。「○○したい」が現れないのはもとより、「○○しなきゃ」もさほどの切迫感、強制力をもたない。昼ごろ起きてソファでだらだらテレビ見たり、音楽かけたり、誰もいないのをいいことに歌を歌ったり(だから無気力というのは正確でないんだが)(いやこれは自分なりに何かしなきゃ、そうだ声を出そう、という解決策の具体化ではあったのだが)、アンダーシャツのまま郵便配達を受けたり。バイト行って帰ってきたらバイト行っただけなのに眠くなったし。そういえば本の上を視線がすべって読めないのは昨日の夜からだ。テレビをだらだら NHK 教育を「おもしろいじゃん」と 1 時過ぎくらいまで見てたのも昨日の夜だ。細野晴臣の歌にうながされて夜更かしした昨日の夜だ。みんな( 2 名)が 2355 とか言ってたのはこれだったのか。といって検索したら 0655 というのもやってるようなので今後はこれを見るために早起きしたい。なんだかんだでテレビのチャンネルひとつだけ残せって言われたら NHK 教育だと思う。やっぱり俺は高踏的なものが好きなのだ。
なんの話だったかというと、だるい、であった。なぜかくもだるいのか。いや、話の核心はだるいではなく、なにもしない、にあるんだった。だるい感覚はさほどでもない。問題はなにもしないことである。むろん、“なにもしないほどだるい”のだ、というつなげ方も可能である。でもバカみたいに繰り返すが俺はそんなにだるくない。ムキになってるみたいだがスパルタローカルズの歌みたいに「背中と肩が石みたい」*1ではない、その歌詞には共感しない。じゃあ俺はただの怠惰なのか。さっさとなにかやれという話であったのか。きっとそうなる。だけど俺は俺を正当化したい。人間のベースは不合理性にあるんだ。んがんだ。
やる気にならないというのは、実際、やる気にならないに他ならないので、やる気にならない人間がなにかをやる気になるわけがない。やる気はどこかから湧いてくるかもしれないが、それが自分の思うままにいくわけではない。「べき」で無気力を押さえつけるのはわれわれの常套手段だが、それは洗練されたやり方ではない(そのうち後述)。うだうだ述べてきたが、結論としては結局次のようなことである。すなわち、予定を立てないのが悪いんじゃないか。昨日今日の俺は、スケジュールから投げ出された僕だった。ものごとは正確な、それゆえ適当な広さをもったパースペクティヴで把握されなければならない。なんのことかというと、たとえば自分に宿題をやらせたいのなら、とりあえず今のペースでやるとどのくらいかかるか算出する。かつ、イベントとかで取り組めない日とかも考えあわせて、これで余裕をもって終われるか確かめる。この流れに私はきちんと乗れていない。あとどのくらいで終わりそうかは把握してるが、実際いつ終わるかは知らない。そうするとだらだら期限ギリギリまで続けてしまいそうな気がするが、俺が取り組まなければならない課題はそれだけではない。別の課題もどのくらいかかるか考えてみると、なんか今のペースでいいかもあやしくなってくるし、自分が今どこにいるかもよくわからない。パースペクティヴとはつまりこのことである。自分の現在位置を把握すること。そしてその把握は、できるかぎり正確なものであること、そのために、十分な量の情報を揃えてまとめること。それがないと、自分がいま何をすべき存在なのかがいまいち不透明で、結果としてなんもせんでいいような気になるのではないか。特に、長い期間を要する仕事であればなおさらで、自分がいま何%なのかも知らされずにただ仕事をやらされていたら、「いつまでも終わらないじゃないか」と思ってやる気が失せてしまうのは当然である。「○○すべき」と口にしたところで、その背景がしっかりしていなければそれは空虚な「勉強しなさい」と同じだ。

*1:ディストーションブルースボーイ」(2006)