本題は今度書く

コーヒー飲んだら復活してきた。今日もだらだらだらだら過ごしていた。なんとなくけだるく、やる気のなく、寝そべってテレビを見たり、ノートパソコンを膝に乗せてインターネットしたり。インターネットですることはもうない――というのは誤りで、今の体制だともう俺の興味あることがらは提供されないのだろう、といったところ。ひとくちに言えばツイッターもうおもしろくないよ、ということ。なぜなのか、を掘り下げるのはここでは控えるが、その一方で日記・ブログのほうは読む。面白く読む。日記と散歩とは似ているところがあると思う。日常をそのまま体現しているのか、それでいて一種のアート*1の形式を保っているからか。でも(結局考え始めてしまうのだが)、だとすればツイッターはなんなんだろう。ツイッターもアートじゃないんだろうか。今日のお昼に思いついたのは、ツイッターには「なう」がつきまとう。今起こってること、今思ったこと思ってることが、ツイッターには書かれる。もちろん程度の問題ではあるけれど、いっぱんに、示される情報の鮮度はやはり高いといえる。ただしそれは「自分にとって」の vivid さでしかないこともしばしばだろう。その今・なう性が読み手にまで伝わるかは、書き手の技量による。そして、ツイッターを単に読み物としてとらえたときの弱点は、ひとつはそこにある。多くのつぶやきは、それを誰が言ったかということと、それを今言ったということ、このふたつの付属物を取り除いて考えた場合、ありふれた一般論でしかない。もちろんそれはツイッターを貶める指摘には直ちにはならない。発言が発言者に同化していることと、それがリアルタイムで発言されていること、それこそまさにツイッターの強みなのだから。とはいえ(退屈だーと思われているかもしれません。というより僕が退屈です、当たり前のことを繰り返し書くのは徒労に見えるので)、そう捉えたとき、ツイッターは単なる暇つぶしの手段にしか見えてこない。しかも、暇つぶしならゲームのほうが楽しいしテレビのほうがためになるし、ツイッターなんてゆるやかなコミュニケーションのもどかしさをいたずらにためこむだけのような気がする。それは俺の使い方のせいだ。
ところでそんなことを書こうとしたのではなかった。コーヒーからはじまる僕の人間観察である*2。でまあこういう注とか書き始めて時間が経ってゆく書きたかったこと忘れてゆくのは悪い癖ではあるんでしょうけども日記とゆうのは一面そうゆうものでもあり、続きを書きます。
コーヒーなんですけども、コーヒーを飲んだり香ったりするとなんだか活性化してくる。それにはこいつに含まれるカフェインなる物質が云々という説明が与えられたりするんだろうけどもカフェインだなんて文系の私にはニッチ過ぎる術語なので積極的に使う気にはなれません。だめだ、本題を展開できる気がしない。コーヒー。それで私はコーヒーを用いてコーヒーに頼っていくぶん活動的な自分を手にするわけですけども、そーいうのは最近になって始まったことで、子供のころは習いごとの水泳教室に行くのがだりいーコーヒー飲んで目覚ますかーみたいなことはしなかったわけです。それは子供のころは「しなきゃいけないこと」が確固としてあって、それはもう基盤なき「べき」、条件法ぬきの義務、定言命法、といったことで、つまり「しなきゃいけないこと」は何があっても動かぬ「しなきゃいけないこと」であったわけで、私は決まった時間になれば端的にそれをしなきゃならなかったし、実際そうした。そういうようなことで溢れていた、昔の僕の生活は。だからダルかろうがなんだろうが「なにもしない」に悩まされることはなかった翻って大学生の俺は大学生という身分ゆえにしなければならないことがほとんどなくてほとんどぜんぶ自分で選んですることであってそこには強制力とかなんもなくて結果自堕落な生活がみたな話ではある。ぜんぜん本題に入らないので次回にまわそうかと思う。
……なんか有益なことを書いてないので申し訳ない気持ちだ。でもそれがねじれた信念であることはわかっている。

*1:私の言うアートはかなり広義に解釈してください、つまり、ネイチャー、自然、に対立するものとしての人為という意味で

*2:関係ないが、「趣味は人間観察」というタームが否定的な文脈を帯びてけっこう昔から存在してるようだ。僕のここでの人間観察はそういう意味ではなく(つまり誤用なのだが)、どっちかというとアマチュア心理学みたいなやつです。なお、「趣味は〜」については、「趣味は人間観察です」問題がとてもいい整理。「趣味とはなにか」については自分でもいずれまとめておきたい