ツイッターからの逃走・日記へのひきこもり中。それはそれとして、やはりやはり俺は安穏な日常、間断なきルーチンワークの集積というよりはルーチンワークでありルーチンワークに限る連続性の日常を求めているのだと思った。安穏な日常は、つまり安穏だ。安穏であるゆえに人間は俺はそれを求める。そこに傾く。吸い寄せられるように。なんの話かといえば、俺は本日バイト先にて一定のイレギュラーな仕事をしなければならず、その仕事はいわゆる労働ではなく、業務外に特定の人と話すということである。しかもそれは単にしゃべくるということではなく、天気の話とかをするのではなく、たとえばネゴシエーション的ななにか、言語によって伝達されうる事実や思想といったものを共有するというよりはきわめて言語行為*1的ななにか、ようするに、謝る、というきわめてコミュニケーション的な行為をなさなければならない、と同時にそれに先立って事実確認という空間へと場を積極的にもっていく必要もあるわけで、これはいわゆる二重苦である。意味がわからんと思います。
じつは時間がないので手早くすませたい。いや、この日記を書く時間という観点への修飾において。さてコミュニケーションが苦手だというのはぼくの元来のいやもうほんと小学生中学年ごろにがっくりレベルが落ちてからはゆるやかな上昇をたどってきてはいるものの未だに俺こそがコミュ障だ!!!とときたま伝えてやりたくなる(軽々しくコミュ障などと口走る健常者どもに)くらいには不自由を感じているような*2、そんなような俺の基本情報であるのだが、ところで「△△するくらいには○○」という言い方には気をつけたほうがいい。「△△する」ことが「○○である」程度をはかる指標となるかどうかはその言明の内には示されていない。さきほどの例でいえば、自分がいかにコミュ障であると主張していようとも実際はさほどでもない、ということはよくある。というかそれが俺の(ときたま)攻撃しようとしているタイプの自己認識であり、同時にその攻撃は自分に対するコミュ障意識にも向けられうる。
コミュ障とかいう乱れた日本語を多用したせいでなんかへんな気分になりました。……この「乱れた」というのにはいろいろ言い訳はあるけども、まあ、んー。
話を戻すと、二重苦、であったわけだが、ここまで描写したらもやもやはだいぶ解消されてきた。あとはやるだけ、やるだけ、やることは決まったから具体的にどうやるか策を練るくらいだわ。策を練るには具体的な話をせねばならず、それはここですることではないのでこの日記はこれで終わり。

*1:もちろん勉強不足

*2:ところで、俺が具体的にどういうぐあいにコミュ障なのかはいずれきちんと述べておいたほうがいいね、自己把握のために