鬱鬱

とくに鬱ではない私です。パソコンつけて用事すませたらすることがないのでプロフィールとかいじりはじめました。ツイッターのも、はてなダイアリーのも。それよりすることがあるはずなのでそれはいいことではないね。ツイッターといえば、数人のフォローを外させていただきました。「見たい奴は勝手に見ればいい、見たくない奴は見るな」が原則のはずのインターネットで「外させていただきました」などとへりくだるのは不自然にも思うが、すでにツイッターはそういう世界になってきたのも事実だ。ページの右側に流行ってるタグがざらっと表示されますやんか。そういうの見てるといかに馴れ合いの場となってきてるかがうかがえて個人的には気が滅入る。もうちょい気楽にやりたいわ。やりたいわ、と思うので、なんとなく気が引けながらも外させていただきました。それにしてもそういうことをツイッターでない場で書くのは二重に間違っている。フォロー外した相手の目にも入らないし、この日記だけ読んでる人には知ったことではないし。ともあれ僕は結局んとこツイッターで馴れ合いをやるつもりはないので、ある観点からしてノイズと判定される発言は積極的に削り、情報環境の整備を行うことにした。インターネットの顔は変わりつつあるが、原則的にはそういうドライな存在も許容するはずさ。
ところで鬱鬱なのだがようは己のコミュニケーションのできなさにいいかげん危機感を覚えたのでしかるべき機関に協力を求めてみることにした。年をとるにしたがって、すこしずつコミュニケーションができるようになってきたと感じていたのだが、それは能力がついたというよりは、自分にとって楽な環境を見つけてきたというほうが大きいんだと思った。やりやすい環境に身をおいてきたから、パフォーマンス自身は多少水準が上がってたってこと。それでも一般に必要なレベルからはだいぶ外れてるしなあ。それから、低い能力はこのままほっといてもよくはならない、という危機感がある。むしろ悪くなるのではないか、というくらい。というのは近頃は「楽に生きる」「苦しまずに生きる」というようなことを志向していて、その一環として「××せねばならない」と自分を追い詰めるのを控えたり、自分のできていない部分を是認したり、ということをしている。それは精神的にはいいんだが、しかし自分がなにかをできるようになる、という観点からすると有用かはわからない、むしろ逆効果かもしれん。という懸念もあって。
まだ書きたいことあるがそれなりの分量でたのでまた別の機会に。