必然性。必要性。そういうものを僕は重く見すぎている。必然性がないと動いてはいけない気がする。たとえば――、大学生同士の関係であれば、あまり親しくない人とのはじめの段階の会話として、部活・サークルなにやってんのとかいう話をするのだが、うーん、そもそも私はあなたと会話をする必然性がない。そこでまずつまずく。よって俺には自分から他の人に話しかけるということがそもそも少ない。よしんば(よしんば……)僕から話しかけたり、あるいはより多いケースとして自分がなんらかのはずみで話しかけられた場合、前述のような部活サークルなんかの話をしたりするわけだけれども、でも僕は所属している組織についての情報をあなたと交換する必要性はどこにもない。そう判断する。平常運転での僕は。ましてやメールアドレスを交換するなどということはもう意味不明であって、なんでそんなことになるのか不条理としか思えない。連絡する必要がないのになんでそんなことするのか。もちろんいまの表現はわりと誇張ありだけど、気分としてはそういうことが確かにある。そしてそうしたことが僕に親しい知り合いを増やすことを強力に妨げている。「友達を作る」ということがなぜか僕の生存のためのチェックシートから抜け落ちていて、結果として電話帳はなんらかの業務的必要があってメールアドレスを交換した人ばかりである。いや彼らと親しくないということをそれは必ずしも意味しないのだが。
オースティンだな。言語は必ずしも情報伝達の手段であるとは限らないということ、むしろそうでない場合のほうが多いということ、を知ったほうがいい。まずは。
あと俺は一人で生きようとするのでおかしなことになる。だいたいのことは一人でできるようになったように見えて、実は一人でできることが増えただけであって、その外の領域、複数人でないとできないことの豊饒な領域を知らないだけだったりする。いや、それらは“絶対に”複数人でないと達成しえないというわけではないかもしれないが、一人でやろうとすると無闇な労力と遠回りが必要になったりするものではないか。そこで、「みんなでやる必然性はないから」と一人に抜け出してしまうのは、たんなる不合理だろう。
より実際的な問題として、共通の話題をあまり持たない、ということが挙げられる。むしろこれが一番大きいかもしれない。僕はアニメもみないしマンガもあまり読まないし小説も読まないし、プロ野球も知らないので、しゃべれる範囲がぐっと狭まってしまう。
うーん、まあ、ようするに、なにが必然的で、なにが人生に必要なのか、ということにかんする認識を拡張すべきだ、ということなのだが。さてどうするか。