というか補足だけど 10/4

ドーピング的に一時的に能力を上げることは、その場でのパフォーマンスを上げるほかに、長期的な面でも役立つと思われる点がある(面とか点とか……)。すなわち、一時的にであれ能力が上がった状態を体験することで、どのくらいがんばれるのかとか自分のキャパシティが見えてきて、そもそもどこまで努力できるのかがわかる。これは、自分の限界に挑戦する的な試み――長距離歩くとか、あるいは酒を飲むとか――が視野を広げてくれるのと似ている。免疫が落ちるとか、なにかが鈍くなるという意味での考慮されるべき問題が起こるのは、おそらく、ドーピングや限界突破が恒常化慢性化したときなのだろう。
しかししかし言葉遣いがいちいち気持ち悪いというか今回取り上げたようなさういう事態を描写するときに「気持ち悪っ」と感ずる語彙しか出てこないのはちょっと健康に悪い。キャパシティーとか自分を高めるとか限界に挑戦とか――。その気持ち悪さの源泉を訪ねてみれば、それはそうした言葉を日常的に使う、そうした事態を使って日常的にものを考えている一団のありかたからきていて、要するに自己啓発本の気持ち悪さだ。盲目に「成功」を求めているかのように見える、よくあるタイプ(一般的イメージですが)の自己啓発本の気持ち悪さ。つまり盲目さであり視野の狭さでありもっと突っ込んで言えば「頭の悪さ」なんだろう。だがこれ以上自己啓発書の(半分は)いわれなき悪口を連ねるのはやめろ。
とにかくまあ自己啓発書的世界観にはどこか盲目的なところがあって、まあ言ってみりゃ学術書だっていいかげん盲目なのだが、それとは向かう先が違う盲目さ、いやむしろ学術書には広い視野を確保したうえで敢えて一つのテーマに向けて盲目になっているんだなんて信仰もあったりして、結局のところぼくらはあのような盲目さに肩までつかりきってビジネスの狭い世界にすべてをささげるのが恐ろしいのだろう。これは無宗教のひとが宗教に入ることへのためらいを感じるのと同じものだと思う。ちなみに僕が予備校に入ることに感じたためらいも同種類のものである(またその話……)。