確かなのは、こうして日記を書いたり読んだり、ツイッターの TL に流れる発言群を眺めたり、自分も書いてみたり、といったアクティヴィティのなかにわれわれが求めるべきは、なんらかの知的進展ではないということだ。ある人が愛について語ることばは実感と理想とがおそらく多分にまじっていて、概念分析には程遠い。あることばに対してなにかを言い付け加えるとき、それが公共的な特徴づけではなく、たんなる個人的な偏りである、そういうことはよくある。「とても」と「すごく」を並置したとき、後者のほうが程度が激しいように見えるのは僕だけじゃなかろう。でも、同時に、逆の反応を示す人も少なくないはずだ。たぶん。これは確かな話ではない。確かな話をしようと思ったらきちんと調査して統計とらなきゃならない。われわれはそういうステップをまったくすっ飛ばして言葉を交わしている。それがときに我慢ならなくなるときもあるが、ふつうはそんなことには気付かずに会話は進んだり停滞したりする。そういうものなんだろう。もちろん会話のなかで新しいことを知ることは少なくない。リアル世界での会話ではとくにそうだ。だいたいリーズニングの分野ではみなだいたい同じようなとこには到達していて、だいたいなにを言ってもありきたりの、同意を誘うだけの発言になる。それより高度なことを言うのは難しい。文字ベースで議論されてるような内容になっちゃうから、会話のなかですらすらと利用できるわけではない。驚くべき指摘は多くは事実関係に関するそれである。しかしながら、会話のなかで新しいことを知ることがあっても、それが会話の本質ではない。もちろんある立場の人は、もっぱら情報を仕入れるために会話をすることもあるだろう。だが多くの会話は、原初的な会話は、多数派の会話は、もっぱら単なるコミュニケーションのために行われているといいたい。(ここで力尽きる)