相対主義は時代の病

そういうことを思ったので、まあリアルのことはリアルで解決すべきなんだがその前準備として、相対主義論駁みたいなことを書いておく。
まず、相対主義。なんでもいいですがたとえば、価値相対主義というのがある。ある事象 A があって、ある人はそれに「よい」という判断を下すが、また別の人はそれに「わるい」という判断を下す。そこにはなんの問題もない。もちろんこの二人がある程度まで寄り添って意見の一致をみることはできる。
あるいは、意見の相違とか。ぼくは○○という意見をもっている。きみは△△という意見をもっている。彼は□□と考えているらしい。じゃあ絶対的に正しいことなんてないのか? そう言いたいなら言えばいい。でも、少なくとも、相対的に正しいことならある。そしてわれわれが「正しい」ということばを使うとき、ほとんどはこのレベルでの正しさではないかな。
外界と認識者の対立、そして認識者の圧倒的優越、そういう図式がしみわたっているように見える。すべては主観だ。いくら正しいことを掴んだと思っていても、それはひっきょうお前がそう「思い込んでいる」にすぎない。価値があるとかないとか、いいとか悪いとか、そんなのはあなたの個人的な意味づけでしかない。まあわかるけど、でもだとしたら人と人がなにかを共有しうる、ということが理解できないものになりはしないか。人と人とがわかりあう、ということをどう説明できるのか。単に信念が偶然に一致しているということではあるまい。
ともかく、「すべては主観だ」みたいな形而上学的な話は措いても、ものごとのより客観的な把握とか、主観的な意見とか、そういう表現は可能なわけです。で、そのうえで、「でも本当は」みたいなことを言い続けるのにどういう意味があるのか? 「本当は」という言い方には周知のとおり警戒が必要で、いやそれにしても「すべては主観なんだよ」と言ってるその当の立場に「本当は」という枕詞がついちゃうのはどうなんすかねえ。「すべては主観的だ」と言ってるあなたの意見は主観的なんですか、だったら僕の意見には関係ないですよねっていうか根源的な意味ですべての世界を自分のなかに閉じさせちゃうとコミュニケーションとかまったくする意義なくなっちゃうからさぁ。
で、なぜこんなことが起こるかというと、電車のなかで考えたんだが、要するにことばの上で言えることだけで突き詰めちゃうからだと思う。「主観的」ということばは適用範囲が広すぎるんですよ。そりゃ世界は検証し切れないよ。でも 1% でも主観分が入ってたら「主観的」ってのはないでしょ。そりゃ表現としては間違いと言えないかもしれないけど、それを主張することにどういう中身が伴ってるのか考えなきゃいけない。どうしても客観って言いたくないんだったら間主観的っていう便利な言葉もありますよ。
というわけで、悪しき形而上学の根源は言語運用のルールを事実と一致させちゃうことにある、みたいなまとめです。いまデカルトの『省察』が目に入ったのでその例も引いてみよう。デカルトは、物質の本質は広がりにある、と言ってます。それをかれは精密な反省のすえに見出したみたいなことを書いてた気がしますが、それとは別にこれも言語運用になぞらえて理解することができる。要するに、あらゆる物質を考えてみて、そこにいちいち「それは広がりをもつか?」という問いをあててみる。答えはいつも YES だ。まあそうだねえ。形而上学ってそういうものかもしれないね。たぶん俺が嫌がってるのは、プラクティカルな話をひたすら形而上学的な見地から拒否し続ける態度だ。やっぱ思考のフレームが違えばそこで使われてる言葉が(字面の上で一致しても)意味を異にすることは意識したほうがいいと思うよ。