うーん問題の所在をつかみかねている。なんでも主観に還元しちゃう主義の話です。いや、いま「なんでも主観に還元しちゃう主義」と言ったが、この〔私の心にある〕問題が主観やそれへの還元に関係しているのかどうかもあやしい。
たとえば「ひとはなぜ校則に従うのか」という問いに対して、「校則に従うのがその人にとって最も良い選択肢だ(と彼が判断した)からだ」と答えることができる。さしあたってこの答えについては次のように突っ込むことができる。すなわち、ある選択肢について、それをとることで得る利益と不利益を計算する、というようなことが、誰にでもいつでも生じているものだろうか、と。言いかえれば、人間ってそんなに合理的なものかしら、という疑問である。
しかし人間がそこまでコンピューター的だと仮定しなくても、同じような観点で押し通すことができるようだ。べつに行動を決めるとき、あらゆる観点を考慮して熟考のすえ行動を決めているわけではない。たかだかさしあたって目に付いた2,3点を、あるいは時にはなんらの観点をも考慮しなくても、今しようとしている特定の行為 F がその行為者にとって(何らかの意味で)最善であると判断される、ということはある……か?
「最善である」というのがそもそも比較を前提している。もっと弱めて、次のようなテーゼでも大方の納得は得られるようだ。つまり、ひとはいつでも、いま起こそうとしている行動に対して、それが自分にとってよい結果をもたらすという確信あるいは予想をいだいている、と。
それは正しいように見える。なぜだろう。そりゃそうだ。自分にとって悪い結果をもたらすなら、そんなことをしようとする人は狂っている。不合理だ。まあほとんど同値言い換えなんですが、ここに「不合理だ」という表現が出てきてることはたぶん重要だ。この問題を解くにはどうも合理性という観点が関わってるっぽいのだ。でもこの問題がどういう問題なのかまだよくわからない。うーん。