まだ混乱してるけど

引き続き。
問題を改めて述べなおそう。てかこういうの読んでてあまりおもしろくないとは思うんですがしばらくこういうのが続くきがします。読んでいる人はあらかじめすいません&ご考慮ください。
われわれが日常的なレベルで用いている「主観的/客観的」という表現の対がある。これを用いることにはなんらの問題もおそらくないし、またこの使い分けにケチをつける人もいないことと思う。問題は、よりメタレベルに上がったときのというか、そこで「本当はぜんぶ主観なんだよ」と言い出す人がいることである。
ぜんぶ主観であるとはどういうことか。これはつまり、客観的と言われているものが本当はどうしようもなく根源的に主観に立脚してるんだよ、ということらしい。らしいっちゅうか俺の考えたことのある主観一元論的立場はそういうものだ。ともかく主観にすべてを帰することは、客観の領域を否定するにひとしい。そして、それが主観論者(さっきから用語法がテキトーです、はい)の狙うところであると思う。
認識論の場では主観論者は他者の心を知ることができないとか、目の前の机が存在するかどうかほんとうにはわからないとか、そうしたタイプの主張をするだろう。「客観」とされる領域の根源的な不確実性である。ここで客観ということで何が意味されているかというと、しかし、これはどうも「主観」でないもの、「私」の外にあるもの、というような定義をするよりほかないのではないかと思う。これは主観論者にとって具合がわるい。なぜなら主観と客観とが相互補完の関係、ペアで定義しあっている関係にあり、かつ、そのうえで客観など実は存在しないんだよ、と言って消去してしまうならば、残された主観もまた概念として存立しえないのではないかと思われるからだ*1。こうなると主観ということばは使わないで、大森荘蔵が『流れとよどみ』で描いてるみたいな極端な一元論に走るしかないのではないかと思う。でもそうした立場はかなりたくさんのものを捨てることになるはずで、一般的な主観論者がそこまで受け入れる準備があるかは疑わしい。ぼくは疑っています。
倫理学の場では主観論者は、ちなみに、価値相対主義をとるはずだ。でも主観論をまともに受け取れば相対主義なんてありえないのだ。価値の“多様性”を受け持つべき他者の存在があやふやだから。
まあともかく、主観論者の立場は「ほんとうに確かなものなどない」というテーゼに立脚しているようだ。それを説明するために主観が持ち出される。外界のものは主観をとおして認識されるから、外界のものがそのまま入ってきてるかどうかはわからない。わたしたちはつねに解釈を通してものを見ている。ただ、ここで「外界」と言ったように、主観論のなかでも何らかの形で客観的ななにかの存在は前提されていなければならない。カントの認識論のような立場なんでしょうか*2。物自体ってやつ。だから、より適切にはテーゼは次のように言いなおされる。「ほんとうに確かだと言えるものなどない」と。おっと、ここまで来るとあんがいに穏当な考え方なんじゃないかと思えてきた。なにしろカントに近いんだから。
実質的にそれが穏当な考え方なのだとしたら、問題は、それが過激な立場であるかのような装いをしていることだろう。ようは表現の問題で、「すべては主観なんだ」と言い放ったらまあそれは大きなことを言ってるように見える。でもきちんと仕様を詰めていったらカントみたいになるんじゃないか。てかさっきからカントを碌に読んだことがないのに彼の名前をさかんに出していますが、いいかげんついでにさらに道をそれれば、カントは認識の処理をするところの理性が人間のあいだで一致するから、結局みんな同じものを見てることが保証される、みたいな理屈をつけたようですが、主観論者はたぶんそうは考えないだろうと思われる。主観論者は、みんなが同じ理性をもってるなんてどうして言えるんだ、とツッコむ気がする。主観論者は懐疑論の手持ち玉が多いんですね。
いや……今読み返していて思ったが、むしろ主観論者は他者の心とか目の前の机の存在とかは認めるのかもしれない。それゆえ価値の多様性も主張しうるのかもしれない。問題は、むしろ、われわれの認識機構の非均一性、われわれは客観的事物をありのままに眺めることなどできないのではないかという疑念がかの立場を主張させているのかもしれない。まあでも(強引にまとめに入りますが)価値の多様性、さまざまな価値を認めよう、というのを通り越して、どんな価値も同様に無価値だ、みたいなニヒリズムに行っちゃうのはなんかつまんないなあという気はしますね。

*1:「私」を使うとまだ先はあるのかねえ。でも「私」と「客観」の対立が有意味かどうかとか対立させたら結局「私」=「主観」になっちゃわないかとか

*2:もちろん聞きかじりの知識でものを言っています