願いの無力さ

願いは、表明しなければ伝わらない。当たり前の話だ。でも僕はその当たり前の事実をきちんと自分のものにできていない。そして僕だけでなく、そういう人はじつは少なくないのではないかと思っている。
ここで願いとは、広く世界・状況が「こうあってほしい」と望むこと、というような意味で使っている。戦争のない世界になってほしいというのも願いだが、明日の授業が休講になってほしいというのも願いだ。そしてここではどちらかというと後者のような、規模の小さい、ささやかな、日常的な、地に足のついた(というと「違う」と思われる人もいるとおもいますが)願いについて主に述べたい。
気になる女の子に話しかけてほしいというのも願いである。お気づきかもしれないが、願いは本質的に、世界に対する受動的な態度をともなう*1。女の子に話しかけられたいという願いの背後には、彼女と仲良くなりたい付き合いたい、というような欲望欲求がみとめられる。そうした欲求を満たす・欲望を実現するには、自分から話しかけて仲良くなる、という選択肢が容易に浮かびはするが、願う人 (wisher) はさまざまの理由からその選択肢をとらない。さまざまの理由にはさまざまあるが、ここはその具体的な内容に踏み込む場ではない。ともかく願う人は、世界に積極的に働きかけるよりは、世界のほうがひとりでに変わってくれるのを待つ。待つというか待ち方自体は積極的に、世界に期待する。
だが、そうした態度が不合理なものであることはほとんど明らかである。願っているだけでは世界は変わらない。それは、願いが、もっぱら自らの心の中だけで展開されており、なんらのアウトプットをもたないことによる。ここで筆者は、心の中の世界と外部の物理的世界のある種の隔絶を認める二元論的立場を前提しているが、それは単に願いの無力さの理由を説明するために持ち出したものであるから、遡行的な根拠をとくべつ求めないのであれば二元論を前提する必要はない。まあ他にどういう根拠が立てられるかというと、とくにアイデアをもたないんだけども。
願っているだけでは何も変わらない。これは、かなり広くに受け入れられる常識的な考え方だと思われる。しかし私はしばしばこの原理を無視した態度をとってしまう。手短に述べればこうである。私の中で、「私は○○ということを願っている」という事実が、「○○が実際に起こるだろう」にいつのまにかすり替わっていることがあるのだ。あの女の子に話しかけられたいと思っていたはずが、いつのまにか彼女が自分に話しかけてくれることは期待できる、と思っているのである。欲望という内的状態が、世界に組み込まれた事実に映りはじめる。
いや、それはあまりにも現実離れしている、と思われるかもしれない。さすがにそこまではいってないのかもしれない。だが、私たちがしばしば願いというものにおいて過度の役割を認めてしまっているのは事実であると思われる。私たちは自らの願いに反する事態が生じると、気分を悪くする。イライラする。そこまではいかなくとも、なにか裏切られたような気がするはずだ。あるはずと思って本屋に行ってみたら、目当ての本が置いてなかった。そうしたとき、私たちはそれを不当に感じるのではないか。この「不当」という表現がポイントである。目当ての本がその本屋に置いてあることを私が望むとき、同時に、目当ての本がその本屋に置いてあるべきだ、という信念が伴っていると思われる。
この「べき」を、さまざまの要因――先週きたときは置いてあったとか、前もって電話で在庫を確認したとか――から考えて、置いてある可能性が高い、という意味で解したときは、問題は起こらない。予想が外れたというだけで誰も悪くない。問題は、これをなにか道徳的な要請のようなものとして捉えたときに生じる。道徳的な要請というとあからさまで空想的に聞こえるかもしれないが、「はず」が「べき」にすり替わる瞬間は、あんがい頻繁におとずれているように思う。
「世界がこうあるべきだ」という思いをもったとき、そして、かつ、その思いが裏切られたとき、人がすることは、結局、憤ることである。世界がその義務に反した。世界が悪い。世界が責任を負うべきだ。ようは、道徳に反した者は制裁を受けるのが当然だが、しかしその制裁を下すのは私ではない。執行人が罰を下し、私はそれを見て溜飲を下げる。執行人がいなかったらどうするか。こんな世界はクソだ、狂ってる、呪詛を吐いて布団にもぐる。
結局受動性の話にしたいのかもしれない。長くなってきたのでざっくりとまとめる。「こうなってほしい」という願いには「世界がかくかくあるべきだ」という暗黙の(そして身勝手な)規定がともなう。そして、「かくあるべきだ」という思いは、「当然そのようになるだろう」という見做しへとスライドする。こうした流れは、推論として捉えたとき、まったく受け入れられないものだが、僕なんかはよくやってしまう。その背後には世界に対する受動的な態度があるんじゃないかと思う。悪いやつは自動的に罰せられるし、「あったらいいな」は誰かが作ってくれる。まあこの社会はだいたいそういうふうにはなっている。でもそれは基本、公共的な制度であったり、営利目的がからんでいる。それらはある意味で特別な理由があってそうなっているので、その例に漏れる事象が見られるのは当然である。それを無視して、要望が自動的に実現されるケースだけ抽出して不当に普遍化してしまった結果が、この世界に対する受動性なのかもしれない。

*1:というよりここでは受動性を伴うような願いの態度に言及している、というべきかもしれない