相手のほうが自分より辛いとどうしてわかるのか

自分より心理的に苦労してたり、よくイライラしたり辛がってたりする人がいる。どっちかというと女性に多い。肯定的な表明より、不平不満をよく口にする。それで、女性は男性よりも世界がハードに見えてるんだろう、という見なしを不用意に立ててしまってもいる。実際問題辛いのかもしれない。なんだかんだ言え女性は男性よりも生きるうえでの邪魔なものが多い気がする。わからない。でも今日は女性について語りたいのではない。
なぜ彼ら彼女らはつらそうに見えるのか。自分よりも生きるのが大変そうに見えるのか。他人の心は知ることができないのに? 第一の疑問はそこである。他人の感じを感じることはできない。それは論理的にもきっとそうだし、現実的にも不可能な話だ。
そこで言語がクローズアップされる。ひととひととが繋がりあえるのは、ひとえに言語を介してである。言語か、あるいは広義の記号によって。「もう疲れた」と発されたことばを耳にして、僕は発話者に関するなにごとかを理解する。それはある程度は僕自身の経験に相対化されているかもしれない。つまり僕は、あなたの「疲れた」を、僕自身が「疲れた」と言うときの気分で解釈している部分がある。だが、結局、このようにして共有されうる部分が言葉の意味なのだ。あるいは、働き者のあなたが昼間っから横になっていれば、きっと具合が悪いのだろうと解釈するし、僕がなにかを言った瞬間にあなたの表情が曇ったとしたら、それは僕が気に障ることを言ったことを示す記号だ。
だがその視点からして、ある人が自分「より」苦労しているとか、自分「より」辛いとかいうのは、正確に言ってどういうことなのか。「もう疲れた」という発話から、自分よりも疲れた、という比較の調子を探し出すことはできない。では発話の頻度なのだろうか。ひっきりなしに疲れた疲れた言ってる人は実際辛いんだろうと思われるのか。うーんそれは必ずしも、である。
ここで、僕は、辛さの程度、みたいなものに言及している。そして、ある人が自分よりも辛いんだな、と理解しうる場面は、その人が副詞(句)を使ってその辛さを強調するときである。曰く、「死ぬほどつらい」とか。「信じられないほど痛い」とか。「心配で眠れない」とか。ありえない、と思う。一面では。死ぬほどつらいようなことがこの世にあると思って僕は生活していない。まあそもそも「死ぬほど」という修飾句の正確に意味しているところがよくわからないが、でもいくら辛くたってそれは死ぬほどじゃないだろう、という気がする。まあヌルい環境にいるのは認めます。情緒的にニブイのもなんとなくわかります。うーん。でもとにかく、まじめに考えたとき、まったく素朴な感触からいって、僕は上記のような表現が自然なものと思えない。
にもかかわらず、そういうような表現を使って、しかも「確かに〈死ぬほど〉辛いんだろうな」と思わせる人がある。それが冒頭の「世界がハードに見えてる」人だ。でも、そうして納得したとき、一体なにが僕を納得させているのか、それがよくわからない。やっぱり頻度なのだろうか。一度や二度だとレトリックの濫用に見えていたものが、常態になって繰り返されると「まあ、そんなものかな」と思えるのか。確かに僕のような人にある日とつぜん信じられない苦痛が襲ってくるよりは、日常的に「信じられない苦痛」に見舞われてる人、というほうがありそうな気はする。