メッゾフォルテごんべえ

俺じゃなくて相手がファースト・アクションを起こすべきだ、というような思い込みは、なんだかんだいってやっぱり俺の中に根強く残っているんだろうと思った。だから、誰がファーストアクションを起こすかが問題となる場面においては、俺は「成長のチャンスだ」と意識することがひとつの突破口となる。なんかうさんくさいですね。でも自分の心を自分で制御することはできると近頃はほとんど確信してるんです。それを哲学的にどう処理するかは別の話としても。
でなぜ冒頭のことを気づくに至ったかというと、誰がファーストアクションを起こしてもいい状況で、でも俺は動かずに、他の人が動いてくれるのを待つ。俺は流れに乗っかるだけ。みたいな態度をとってることが否定しようもなく目につく、目につき続けてきたので。誰がはじめてもいいんだ、ということは、理屈でもわかってるし、実感のレベルでも「常識」としていいくらいにはなってる。でも体がそのとおりに動かない。体はそう考えてはいないようなのだ。
習い性ってやつかしら。長年の受動的態度がしみついてしまっているので、あたまでわかっていても(ってこの心と体の対立図式は好きじゃないんですけど)実際に動けるかは別だと。特に、あんま意識的に生きてない時分は――つまり、意識的に理性によって自らの挙動を観察・コントロールしようとしてないときには、つまり気を抜いてるときは――その「性」がわかりやすくでる。
だから、意識するってのが解決策としてあがってくるわけです。ようは、コントロールしようとすればある程度できるステージにはきてるかなあと。ただそのステージに来てみると、そこに至るまでの過程をほとんどすっかり忘れてしまっていて、だからいっぱん的な教育には大事なとこが抜け落ちてるんだなあと思う次第。大事っちゅうか……、大人のなり方を誰も教えてくれないみたいな。