「だからこそ」の論理

論理というか、レトリックというか。論理とレトリックって裏表関係で考えていいんですかね。
(1) 俺たちに勝ち目はない。だから、さっさと諦めよう。
(2) 俺たちに勝ち目はない。だからこそ、戦うんだ。
あるいは
(3) 死んだらなにもかも終わる。だから人生には意味がない。
(4) 死んだらなにもかも終わる。だからこそ、生きることに意味がでてくるのだ。
とか
(5) このまんじゅうはおいしい。だから高いのも仕方ないね。
(6) このまんじゅうはおいしい。だからこそ安くすべきだ。
みたいな。
「だからこそ」は論理的には「だから」と等価、と考えていいでしょうね。理由と帰結、原因と結果、そういう関係を表している。ちなみにこれを一般的な形式論理で書くとどうなるのかがよくわからない。条件法ではないんだよな。〈条件法+その前件〉から〈後件〉を導く接続詞でしょうか。つまり A→B, A, だから B 、という。しかし、むしろ「だから」は論理というよりは理由の問題に属している――それゆえ形而上学ではなく倫理学の話題にはいる――と思われる。
理由というものは、基本的にはいかようにもつけられるものである。「今日は学校に遅刻した」に続けて、「なぜなら、{寒くて布団から出られなかった/テレビが面白かった/ごはんを炊いてなくてしょうがないから外食しようと思ってすき家に行ったら思いのほか混んでいて……/友人からの電話が長引いた/登校中に困っている老人を助けた/今日は気分じゃなかった}からだ」というように幾通りもの理由をつけることができる。もちろん、そのなかでどれが真実らしいとからしくないとか言うことはできるし、それは無意味なことではない。とくに、老人を助けたなんていうのは (a) 事実そういう出来事が生じたこと (b) その出来事が遅刻の理由とするに足るほどの時間的幅をもっていること、の二点を考慮すればかなり高い説得力でもってその理由を受け入れたり拒否したりできるだろう。まあがんばればまだ食い下がれるんだけど。
「朝起きてからここに来るまでのきみを見ていたが、老人を助けてなどいなかったじゃないか」「いや、じつは助けていたんだ。駅前の横断歩道の前でぼくは伸びをしただろう。あれは特別な意図あってのことだったんだ。じつはぼくはボディ・ランゲージでカラスとコミュニケーションをとる能力をもっていてね。ちょうどそのとき、電線の上のカラスが信号待ちの老人の頭めがけて糞を落とそうとしていたんだ。それをぼくは見とがめて、伸びをした。伸びは、カラスにとっては、≪うしろに敵がいるぞ≫というサインなんだ。敵がいたら排泄なんかしてる場合じゃないから、カラスは急いで飛び去った。こうして老人は、本人は気付いていないが、事なきを得たってわけだ」お粗末さまでした。まあこれはお粗末な話だけども、 minimal な意味での「説明」にはなっている。もちろんこの説明はかなりマズイものです。まず人助けのためにした行為が結局のところ数秒で済む「伸び」でしかないのであれば、やはりそれは遅刻の理由にはならない。これを指摘されてもあくまで食い下がろうとすれば、さらに奇妙な理由をつけることになります。「ぼくがカラスのことばで伸びをしている時だけ、ものすごい速さで時間が流れてしまうんだ」とか。こういう人が実際にいたらまじめに聞くのをさっさとやめてしまうと思うんですが、でも彼は少なくとも今のところ「論破」されてはいない。たぶん、この調子で原理上はどこまでも逃げ続けることができるはずです。まあ逃げ続けた果てに彼の中には途方もなく混乱した形而上学が築かれているはずですが。理由はそれらの総体においてのみ評価されうる( cf. クワイン)みたいな。
どういうクッションを置きたかったのかというと、つまり理由は単体ではいかようにもつけられる、という話でした。まあ「なんで浪人したの」という問いに「スミレが紫色だったからだ」と答えれば、さらに「なんでスミレが紫色だと浪人するの」と問いが続いていくことになりましょうが、でもそのなかでスミレの色と自分の身の振り方を結びつける完結した理由空間を描くことはできます。それがいかに奇妙なものであろうとも。
で、そのことが「だから」と「だからこそ」の両立可能性――ある前提 A に対して、「だから」帰結 B が成り立つと言えるのと同時に、「だからこそ」帰結 ¬B (あるいは ¬B を含意する別の帰結 C )が成り立つとも言える――を成り立たせていると思われます。さっきまで理由の話をしてましたが、同じことが帰結にも言えると。ようはどんな文の組に対しても、それが理由と帰結の関係であると言い張ることが可能であるわけです。
で、図らずも前準備が長くなってしまいましたが本題に戻ると結論はこうです。「だからこそ」も「だから」と同じように、理由と帰結の関係を述べている点で、論理的なはたらきに違いはない。その証拠に、 (1) と (2) の組ほかを、「だから」と「だからこそ」を入れ替えて読んでも一応読める――無理すれば。違うのは、つまり「だからこそ」のレトリック的なはたらきは、「だから」のアンチテーゼとしてまったく逆の、かつ説得力ある帰結を述べてみせる、この点を強調することにある。さっきの「だから」と「だからこそ」を入れ替えて読んでみるのが実際かなりキツかったのは、「だから」のあとにくるのは常識的な帰結、「だからこそ」のあとにくるのは意外な帰結、というのがほとんど語法上のルールとして組み込まれてるからでしょうね。これ、 and と but が論理上は等価であることとパラレルになってるかも。
ただ、ちょっと問題に思われるのは、「10円あるからうまい棒が買えるね」と言えても「10円あるが、だからこそうまい棒は買えない」とは言えない気がすることだ。これは理由というより形而上学的な可能性について言及してる文として――つまり条件文とその前件が揃ったものとして、処理すればいいのかな。いちおう後者の文も意味が通らないではないし。そしてそのときは、うまい棒を買う条件が整っているかどうかよりも、うまい棒を買うかどうか決断する行為者の考えが問題になっている。