私たちはしたいことしかしてないのか

承前を出せといえばこれです。再論。
問題となる立場を簡潔に述べればこうである。私たちはしたいことしかしていない。不本意なことをしているといっても、それは実のところ自分がしたいからしているに他ならない。具体的な例をあげよう。ラーメンを食べようと思って街へ出たら、いつのまにか中古 CD を漁っていた。ここで、ラーメンを食べたいのにそれをせず、いわば中古 CD の誘惑に負けてしまったわけである。だがこの例はそこまでこわくない。この例においては、ようは「したいこと」が途中で変わってしまったのだ、と説明することに抵抗はない。
もうちょい面倒な例は、たとえばあなたは命じられて書類のコピーをやってるとする。あるいは暴力に脅かされてトイレ掃除をさせられているとする。そうしたとき、あなたは書類のコピーやトイレ掃除を「したくて」してるのだとは言わない。だが、論者はちょっと表現を弱めてこう言う。「でも、そうするのが一番いいと思ってやってるんでしょ」。そう言われるとそうかもしれない……。確かに、勝ち目のない支配者に反逆して軽くひねられ屈辱を喫したり、上司の命令に背いて会社の中での立場を悪くしたりクビになったりするよりは、おとなしく従っているほうが、「マシ」かもしれない。
ところで、ここで注意すべきは、悪い結果をおそれて自分のしたいことをしない、というのは、自分の選択している行為がまだ「マシ」だ、という判断を許すが、それが「したいこと」だ、とはどうしてもいえない――きわめて不自然だ、ということである*1 *2
だが、論者は引き下がらず次のように繰り返すことができる。「われわれは、自分にとって一番よいと思われることをしている」と。これは直観的には正しいように思われる。そもそも自分にとって悪い結果をもたらすと思うなら、そんなことはしないだろう――悪い結果を起こしたいと思っている人ならともかく。自分にとっていい結果を引き起こしてくれる選択肢と、特に何も起こらない選択肢と、自分に害をもたらすであろう選択肢があったら、一番目を選びたくなるのは当然だろう。*3
ふたたび、ここで注意すべきは、われわれはありうるすべての選択肢を知り、吟味することはできないということである。言いかえれば、私たちは全能ではない。どんな選択肢がありうるかを一つ残さず視野に入れることはできないし、また、視野に入った選択肢たちのなかで、どれが「一番」自分にとっていい結果をもたらすかを判断することも、必ずしもできるわけではない。たとえば今、チョコレートを食べることと読みかけの本を読み進めることと、どちらがいいのだろうか? チョコレートの香りや味は私に快楽をもたらしてくれる。また、すこし空き始めた腹を満たすのにもいいだろう。集中力を高めてくれるともいわれている。読書の前にチョコレートを食べておいたほうがいいのではないか。いや、その必要はないかもしれない。チョコレート程度で腹がふくれるとは思えないし、最近本を読まなすぎなので今はおやつを食べている時間も惜しい。できるだけページ数を稼いでおきたい。しかし数分を割いてたかが数ページを稼ぐことに、どれほどの意味があるだろうか? それよりも普段からある程度まとめて本を読む習慣をつけるべきではないのか? 散漫な読書はたいしたものを残さない。いや、普段の積み重ねがいわば読書力を育てるのだ。読書力ってなんだ? やっぱチョコレート食べようかな……。
結局、行為の選択肢がいくつかあるとして、そのそれぞれがもたらしてくれる快楽の量を計算できるわけでもないし、考慮すべきは快楽だけというわけでもないし、ある選択肢を支持する理由の数が多いほどよい選択肢というわけでは必ずしもないし、強い理由弱い理由というものがあるとしてもそれはかなりおおざっぱな判断にしか使えない。われわれの判断機構もそれほど精密なものではないし、眠かったりめんどくさかったりして十分に考えることができないことだってある。
というわけで、僕が今のとこ許容できるのは、次のようなレベルでの規定である:「ひとは、自分にとっていちばんマシと思われる結果をもたらすであろう選択をする」*4。じつは、他の人がいうのもこれと同じレベルのことなのかもしれない。ただ、簡潔に表現してしまうともともと想定していなかった含みが生じることがあって、そこはおかしいなと思っていたのであった。強調すれば、ひとがいつも「自分にとってよい」という観点からものごとを選択しているからといって、あらゆる選択が肯定されるべきだということにはならない。ひとは“間違える”ということができるのである。「ひとは自分にとってよいと思うことだけをしている」という表現は、人間がそもそも間違えうるという可能性を覆い隠してしまいかねない。

*1:それが自らの自由な選択によった、意図的な行為だということは言えるとしても――111122注。「したい」という表現を、自由とか選択とか不自由性といった概念の間で定義してやる必要があるかもしれない。

*2:ちなみに、きわめて合理的な人なら、それが多少の苦痛を伴うものであっても、自分にとって一番よい選択肢なのだとクリアに認識すれば、それを「したくなる」ものなのかもしれない。しかし誰もがそうだとは思えない。ふつうは、「したいこと」があるのに、そうでないことをさせられている、という状況はよくある。111123注。

*3:「自分にとっていい結果を引き起こしてくれる」というのはやや specific な形容である。結果がどうあれ自分はここでタバコが吸いたいんだ!という動機から行動を起こす、ということはよくある。すると「したいからする」という、ほとんどトートロジーに回帰してしまうわけだが……。とりあえず、現在の欲求から出発している行為と、未来への配慮 prudence から出発している行為その他と、……ようは一元論は望みがなさそうということになるのだが。 (111123)

*4:いや、より正直になれば、ここで述べているようなことがつねに起こっているとさえ僕は思わないが――実感としては。