演劇にコンプレックスがあるんです

演劇にコンプレックスがある。芸術やってる人にもあるな*1。なんでだろう。高校時代好きだった人が演劇部でした。高校時代好きだったあの人はとても人間的にできてる人で(と少なくとも僕には見えた少なくとも俺よりははるかにできていた)、そのことが演劇にも投影されてるのかもしれない。演劇をやってないことで俺はある点で人生において負けていると感じる。じゃあやればいいじゃーん。でもやりません。俳優って人間的にできてる人が多い気がしますね。なんか。なんなんだろう。偏った観測かしら。しかし演劇をやる人はそれなりに確実に苦労もするのだろうし、人と人のあいだで生きる時間が多くなるのだろうし、あと自分とことなる人間を生きたり、でもその人間はべつの台本家という人間がつくった人間であったりしてそうした人間を生きるというのはけっこう負担の大きい活動なんじゃないかとか思ったりもします。そしてそうした体験が演劇人を強くするのだろうと思います。演劇人は演劇を通じて人生の量を増やすのです。
まあたいがいな勝手な見なしだと思う。実際やってみんと何もいえない。何も言えない俺が何かを言うときっと皮相なことになってるし、それが主語をでかくすることを避ける理由だ。「宗教は」「芸術は」「科学は」「哲学は」まあ門外漢が語っておもしろい話が出るもんではない。てゆか頭んなかでうんぬんして語るんだったらまず参加しようよと思いますよね。そのほうがずっと有益な時間が過ごせる。
結局、演劇をやることは自分のなかで人間的成長につながっていて、人間的成長は自分のなかで巨大なエディプスコンプレックス的な(違う)、強い価値づけというかその価値をもっぱら求めているわけではないんだがゆるぎない価値としてあって、それゆえ三段論法的に演劇にはコンプレックスを感じる。でも僕はやりません。なんでだ。

*1:なんかこの先ぜんぜん違う話に展開したので注で補足ですが、やっぱカギは「自己実現」ではないでしょうか。芸術は、みずからのパーソナリティに密着したかたちでみずからを表現する――ように見える。演劇は、みずからの身体をもってなにごとかを表現する。そこには人間の根源的な充足がある。そういえばダンサーみたいのもすげえ怖いかもしれない。そこへくると作家だってずいぶん見劣りするし、学者なんてのは貧弱に過ぎる。というわけで僕のパースペクティヴはだいぶゆがんでいることがお分かりでしょう