尊敬の難しさ

尊敬するってのがなんなのかよくわからない。いやむしろ尊敬というのはじつは不可能なのではないかという気がする。
ある人 A を尊敬するということは、 A のように生きようとすることを含む。 A さんのりっぱなところを真似しようとする。
そこに困難があるのではないかと思う。
ある別の人のように自分がなろうとすることは、自分が自分であることを否定することになるのではないか? そんなことできっこないのではないか、いや、むしろ、そんなのは耐えられない。自分はオリジナルな存在だ、自分は自分のオリジナルな人格をもち、信念をもち、自分らしい人生を歩まねばならない*1
アイデンティティだ。ある他者を真の意味で尊敬しようとするとき、自らのアイデンティティは塗り替えられる。
しかし「真の意味で」尊敬することをあきらめれば、もっとカジュアルな尊敬が可能なのではないか。むしろ、「尊敬する人」をもつことは、自らのアイデンティティにその人を組み入れる――好きな音楽を表明するように、付け外し可能なアイテムとして扱うこととも考えられる。
しかし、しかしだ。そこまであけすけに言ってしまうともう「尊敬」という域からは外れてしまう。……尊敬は、結局、尊敬する相手に対して誠実であることを誓いつつ、実際は気づかずちょいちょい裏切っているような、自己欺瞞的な構造をもっているんだろう。
しかしそれは俺が尊敬に対して過度に厳格な基準を置いているからこういう話が出るんだという気がする。楡は理想を追っているのではないか、そういうのいつもは自分が戒めてるくせに……。理想は理想であるかぎりで意味をもつ。理想は、それを目標にして走っていくための方向を定めるが、理想そのものに到達する必要はない。数学の極限みたいなものである。
……


「尊敬」というとき、僕はどうしてもその尊敬する人にみずからを一部、同化する、という契機がそこに含まれているように感じるのだが、一般にはそうでもないのだろうか。しかし、だとしたら、尊敬にはいかなる意味が残るのか。
アインシュタインを尊敬する」といっても、なにもその人が理論物理学者になりたいというわけでは必ずしもない。これはわりとカジュアルなレベルでの尊敬と言える。問題にひたむきにとりくむ粘り強さとか、学問への情熱とか、物理学をひっくり返そうという野心とかを見習おうというわけである(アインシュタインがそうしたものをもっていたかどうかは知らないが)。
しかし。これは実はハードルが高いのではないかという気がする。アインシュタインを尊敬することに、学問への情熱をもとうとすることが含まれるのだとしたら、僕は「アインシュタインを尊敬する」と言うことで同時に、学問に情熱的にこれから取り組むぞ、と周囲に表明してることにもなる。それはこわい。僕にはなにかに情熱的になれる自信がない。僕はアインシュタインを尊敬することができない。
アインシュタインだけではない。だいたいにおいて、ひとを尊敬することは情熱的になることを含むように思われる。(一般に尊敬される人がどういう人であるかを考えれば――もちろん例外もある)。しかも恐ろしいことに、尊敬することは、自らにりっぱであることを課すだけでなく、しかも尊敬相手を担保に入れてそれを言うのである。ネルソン・マンデラを尊敬している私がしかし自堕落な生活を止めなかったら、これは自分がマンデラ氏を侮辱していることにもなる。そしてその侮辱はわりと避けがたい(人間そう簡単に変わらない)。ひとを尊敬するなんて恐ろしくてできない。リスク高すぎる。尊敬とは尊敬相手とひそかに約束を交わすことなのだ。
僕は飽きっぽいので、ひとつの方向に定めて進んでいける自信がない。ところが尊敬はそれをむしろ強いるように見える。ゲバラを尊敬したら、ゲバラのように生きなければならない。生き方を変えることは、ゲバラへの尊敬をやめることだ。それはゲバラへの dis-respect である。べつにわざわざそんな事態に陥る機会を増やさなくてもいいだろうと思うのだ。


なんとなく長くなってしまいましたが以上です。僕の考え方にいろいろおかしいところがあることがわかったと思うので、読者のかたがたは適宜指摘してくださいっていうか指摘する必要があるのは主に僕が自分の認知のゆがみを認識するのが有用なので気が向いたときに読みなおそうと思います。

*1:まあ、もっとも、最近はそうも思わんのだけども