真夜中にギタァかきならす

今夜も満たされない魂抱えて。満たされないなどと口走ってしまったが、この気持ちが「満たされない」と記述すべきものなのかどうか。欲望欲求はいっぱんに欠如/満足の契機をもつと考えられる。いまの自分だって、やはりこれは欲求、欲望だ。恥じることはない。だがそれを、比喩的でない意味での穴や隙間がそうであるような、「ない」ことによって「ある」、そこに物体が存在しないことがその本質であるような、ある欠如として考えるのが妥当なのかに自信がない。内観はすればするほど判断に自信がなくなってくる。確かなのは自分の心じゃなくて、むしろ外界の実在物ではないか? 話がそれてきた。
確かなのは俺の満たされない魂とやらが いま ここ にないなにかを求めていて、しかもそれを得ることによって俺はよりよいなにかになれるだろうと考えていることだ。いや、むしろ、端的に、俺はいま・ここにない特定のなにかを得るべきだ、と思っているのかもしれない。べきは自然科学にない語彙だ。べきは利益計算に還元できないし、悪いことしたら捕まるよ的な条件法の構造も持っていない。つまりべきは分析できない。俺があることをすべきだと思うとき、では仮にそれができなかったら?という質問は意味をなさない。
調子に乗った書きぶりになってるあたりから推察していただけるとうれしいのだが、つまり、これを書いてるわたしはもう満たされない気持ちにとらわれてはいません。文章書いたりインターネット見たりしたので。でもね、うち帰ってきて夜になると最近は通例こうしたムードになる。こうしたムードってどんなんだよ描写してなかったですね。すいません。