女性観素描とか

いわゆるギャル系よりも黒髪のほうがいい。オタク趣味のほうがいい。オタク趣味の女性はいい――ただし、性的対象として。オタク趣味がいいのではないのである。オタク趣味の女性は、いい。電車の向かいに座ったら観察したくなる、見つめて反応を見たくなる。つまり俺はオタク趣味の女性を自らの手中にあるものと捉えている。自分で扱えるものと考えている。人間的に?弱い者であると考えている。それはオタク趣味がもともと男性の文化であったからかもしれない。男性の文化を受け入れた女性は必然的に男性性への親和度も高いだろう――そういう算段である。要出典。要出典。だがまだ妄想は続く。
ギャル系のファッションはわからない。なんで紙を茶黄色っぽくして眼の周りを黒くして肌を焼くのかぜんぜんわからない。そもそも化粧するというのがわからないがそれはギャル系でなくてもする。なんかもう化粧してるって点ですでにアダルトなビデオとか見てもそこに世界の秘密は開示されてないことに気づかされたある時があった。今日、電車待ちで前に立った女性の横顔から、化粧で白く塗ってる領域とそうでない領域の境目がぼんやりと見えて、化粧を塗られていない領域は黄色く際立っていてああそうかみたいな一人で合点するというかなんか得した気分というかそうか、みたいな感じでした。どうなんでしょうね。男性側の需要でいえば女性が化粧するというのは必ずしも、な要素である感じがしますがしかし化粧された顔がすでに道徳のように世界に基盤づけられた既成事実として沈静している現状をかえりみるに、いきなり化粧がなくなったらみんなびっくりするんじゃないかという気はしますが。それに世界のすべてが男性の需要に依存してるわけがないぞ。
そこでギャル系なのである。ギャル系という表現はとてもくたびれているというか苦し紛れというかうまい表現がおもいつかないので今回はとりあえずこれで通す。ギャル系のファッションがわからない。意味わからない。手でピースサインを目のところにもってく仕草とかもわからない。でもたぶんそれは女性的にはイケてるんだろうと思ってみている。そうした視座からはギャルとして思考し装い行動する彼女らは女性として独立し女性の文化をまもっている存在なんだろうと思ったりもする。そういうのはたぶん自分のいいように操作したりはできないだろうと思う。彼女らは自我が強すぎる。


というわけであやしすぎる(そして怒られそうな;ごめんなさい)話を展開してきましたが、これを自分の問題を述べるために整理し直すと次のようになる。 (1) とりあえず自分は女性をさしあたって二通り――ギャル系とオタク系――に分ける。それは女性固有の文化に属しているか、男性の文化に属しているかに対応する。 (2) で、主に性的な興味?の射程に入るのは後者、オタク系である。なぜなら、自分の「手に負えそう」だからである。つまりそれはオタク系の女性がその文化によっていくぶん男性化していることを意味する。
そして、こうした信念をもっている自分が抱える問題は、性的興味をもつ相手を(偏見のために)あらかじめ限ってしまっていること。しかもその限り方は、 (1) ようは「勝ち目のある」相手だけ相手にしようという打算にもとづいており、また (2) 自分の属すると異なる文化を容認しない態度にも結びついている。……んー、つまり、これは、自分の生き方がこれでいいのか? という倫理的な問いであるわけだ。


しかしこれは上げづらい。やっぱり恥ずかしいんじゃないか……と思ったが、むしろこの話は端的に醜く、自分の醜さ、しかも自ら肯定する気もない――修正しうる、つまり自分のアイデンティティに結びついてるとも思えない瑣末なタイプの醜さをさらすのは特に気持ちいいことでも特別に有益なことでもないので、ようはいたずらに自分の評価を下げるだけなんじゃないか……という気がする。でもどうだろう。これも、仮のものではあっても、ひとつの正直な本心であることには変わりない。他者に映るであろう自分の像を自分で積極的に操作しようとすることはあまり感心しない気がするし、自分のアイデンティティを自分で定義しようとすることは愚かだと思うので、やはりこういうのも上げておこうと思う。