物は壊れる、人は死ぬ(ムーンライダーズ)

きょうは多少とも構築的に文章をつくろうかと思ったけれど、そこまでのやる気を振り分けようとするとこの日記の存続が危ぶまれるので、きょうもふつうにだらだら書きます。構築的な書き方がさほどエネルギーを食わない乃至むしろそのほうが楽であることに気づくか、さほどエネルギーを食わずとも構築的に書けるようになったらもうすこし読みやすい楡男になるかもね。さて本文。
ものが劣化していく、ということが耐えがたかった。まあ浪人してた頃までかね。スーパーファミコンのACアダプタが断線しかけてうまく調整しないと遊べなくなってくる。本は古くなる。物理的にもなんか茶色く変色するし、情報としても out of date なものに日々落ち込んでいく。ひとは年をとる。もう 22 だって。早いね、とは言いたくないけど、不可逆的な流れのなかに自分があることは感じる。僕は eternity を求めていた。一生使えるものが欲しかった。せっかく手に入れたものがだんだん変わってなくなっていってしまうのは耐えられない。人生には最後にたどりつく安住の地があって、いつかそこにゴールするのだ。哲学的には基礎づけ主義についつい共感してしまうし、浪人してた頃は基礎固め主義だった。基礎を完璧にしよう。ものごとの根本から理解しよう。そういう欲求があったから結局、大学では数学じゃなくて哲学にきたんじゃないかというのが今は最有力の学科選択の理由だ。数学はけっこう細かい疑問には答えてくれないのよ……。まあ受験の結果からいえば基礎ばかりに固執すると視野狭窄になって結局基礎固めの効率も悪くなるってのが教訓ですが。
というわけで、大学入ってからのわたしは非・基礎固め主義に片足をつっこみ、基礎も応用もごちゃまぜに見ていくことで漸進的に認識が進んでいくやり方を選びとり、やがて古くなる情報はしかし新しいうちは価値があるのだから新しいうちに摂取するのはよいと認め、…… Twitter みながら書いてたら調子がわかんなくなった。つまり「ものは劣化する」というほとんど当たり前のテーゼをようやく受け入れるに至ったわけだ。ちょっと違うのが紛れ込んでますが。
永遠不変なる universal な視野を捨てた、あるいはいったん括弧に入れて眺めたとき、目の前に現れてくるのは、結局これまたトートロジーじみているが「目の前には目の前にあるものしかない」というような事実で、最終的な安住を求めて果てない探求にもぐり込むよりも、目の前で起こっていることがなんであるか見極めよ、対処せよ、という考えにシフトしていった。ゆるぎない基礎の完成は、こりゃ、永遠に終わんないんじゃないか、と思い始めたのがひとつ。専心して基礎をせっせと固めてるそばを通り過ぎていくものがちらちら見えていた、つまりおもしろいことは他にもあるのに、敬虔なまでに基礎だけに努力をささげてていいのかと思ったのもひとつ。しかもその基礎だって、ようやくできたときにはすでに賞味期限過ぎてたなんてこともありえるし……なんて考えるようになった。
それらはだいたいにおいて正しいと考えている。まあ俺の人生の最前線の答えだから、正しいと自分では言うほかないんだけど。
ところで、ひとつ疑問がある。上に提示したような非・基礎づけ主義からは、「今を生きる」なんて標語で表現されそうな態度が読み取れる。ようは「今を生きる」ってことなんでしょ、と。如是如是。いかにもそうだ。もうすこし展開すれば、「今しかないから、今を大事に生きられる」とでもなる。今しかないというのはチャンスが今しかないとかでなくて――まあそれでもいいのか――もっとトートロジーじみた形而上学的な意味での今しかない、です。認識論でもいいです。われわれは今・ここ以外を生きることができないでしょ。いや、むしろ今・ここ以外をついつい生きてしまってるのがわれわれなのですが――たとえば妄想・期待・後悔といった仕方で。だがそうした態度は、現実になんら影響を与えるものではなかったりして……そういう話だったっけ。
そういう話か。「今・ここ」に生きているか、いないか、という区分が上記のように有意味であるかぎり、「今を生きる」という提案はまた(ただのトートロジーでなく)有意味なものになる。あれっ。じゃあ謎は解消してしまったのか。――いや、もともとこの日記の本題として、〈「今しかないから、今を大事に生きられる」というような言明は、意味はわかるけど、それを論理的にうまく語れないのはなぜか〉という疑問が控えていたんですが、それは解けたっぽいです。すなわち、「今を生きる」をトートロジーでないものとして理解する――つまり、その裏にある「今を生きていない」状態がどんなものであるか理解することによって、それは「わけのわかる」言明になる。「今しかない」わけではない、妄想・期待・後悔によって意識があっちこっちいってる人は、今の現実には集中してないわけです。
これ以上お説教っぽくなる前に(つまりそれは、同じことの繰り返しで自分にとってつまらなくなる予兆なので)切り上げます。最後のほうは仏教、特に禅仏教の考え方を念頭に置いてます。無常観ってやつか。ゆく河の流れは絶えずして〜っての好きで、日本の古典でこれだけは通読しました。高校んとき。