能力と否定性

たとえば、好きな人に大事なことを伝えようとするとき(ま、いろいろ留保つきの表現ですが……)、その人がさほど親しくなく、メールで呼び出したりできないばあい、まずその人の姿を捜してまわるわけですが、いざ見つけたとして、果敢にもその人に、よく話したこともない顔見知り程度のその人に、いきなり話しかけていく自信が僕にはない。てか実際できない。まあ半分は思い出話である。もう半分はアクチュアルな話題として語られている。まあそれはそれとして。
ひとのアビリティってのはこういう機会に画定されていくものだと思う。つまり、なにかが「できない」と判明したときに、能力という概念が意味をもちはじめる。能力は「限界づけられる」という一種の否定をこうむったとき、はじめて能力たりえる。無際限の能力などというものは能力として語る価値をもたない――せいぜい、他の、能力のいくぶん劣った者と比較するときに役立つくらいである。
つまりこう言いたい。能力というのは、なにかが「できる」というよりも多く、なにが「できない」かに焦点を注いだ表現なのだろうと。いやそれは事実でない。彼女は英語ができる、彼はプログラミングができる、ベースが弾ける。ポジティヴに能力を語る場面はいくらでもある。
だがそれは他人と比較するときのみではないだろうか。自分の能力というものを考えるとき、そこにはつねに否定性がつきまとうように見える。僕は英語ができないから、 TOEIC で 600 点以上取れるようになりたい。論理的思考力に欠けるから、これを伸ばしたい。今のままだと志望大学に受からないから、もっと努力しよう。人と話すのが下手だから、どうにかせねば、 etc. 。自分からみてずいぶん「能力ある」ように見える人でも、みずからの“無能”に悩んでいることはある。
うーん、人間は(あるいは若者は)自分のできないところばかり見つめるという話ではあるのかもしれない。だとすれば、自分のポジティヴな側面での能力について語らしめる(いくぶん歪んだ?)鏡としての他者の意義をぼくは強調したくなるだろう。うーん。自分のできないところに目を向けるのは、自然でもあるし、また自分が成長(といって悪ければ、変化)していくのに役立つ。と同時に、自分になにができるかに注目することもまた大事だとは言いたい。おおざっぱに整理すれば、自分のネガティヴな面に目を向けることは、私的生活において役立つが、自分のポジティヴな面に目を向けることは、公的生活において役立つ、というふうになろうか。