わかんねーけど

否定的に確定されたみずからの能力を、みずからは潔く認めるべきだという気がする。自分が○○できない、ということを、厳然とした事実としてまともに受け取るべきだといまは思っている。自分のその問題自体は改善可能なものかもしれない。いやむしろ絶対に、改善可能である。しかし、それが直ちに、バファリンを飲んで頭痛を止めるように治せるものかはあやしいし、またピンポイントで改善できるものかどうかもわからない(いろんなことをしているあいだに、いわば人間的“成長”のうちに、いつのまにかその欠点が解消されていることに気づくかもしれない)。
この話は、一種、自分はできるはずだと信じて盲信することが愚かだと言ってる話でもある。『飽きる力』(河本英夫著)だっけ、ちゃんと読んでないけどそれは重要な指摘だとは思う。努力の仕方がまちがっていれば「こんなにがんばっているのになぜ」の不満とある種の愉悦の迷宮に入り込む。だろうとは思う。
やっぱそういう話なのか。
できないことをできないと認めるのがなぜ難しいのかと考えたとき、やっぱその「できない」体験が(ある観点からして)本質的に再現不能であることが逃げ道になっていると思う。つまり、上の記事の頭で述べた例でいえば、昨日声をかけられなかった俺と今日声をかけられなかった俺はどこか違う条件下でその行動を試みていて、だから厳密に、いじわるなくらい厳密にいえば、それらの事例は「僕は彼女に声をかけられない」という仮説を検証したことにはならない。いや、そこまでコンディション指定して言うと出口もありそうだが、ようは、昨日今日の俺がそれをできなかったからといって、明日の俺がそれをできないとは言い切れないのである。ヒュームの因果関係みたいな話だ。そして、どうも人間はその種の淡い期待を抱いてしまいがちなものらしい。
いや、自分の話なんですけどね。まことに愚かなことには、あるやり方 A でもって目的 K を達成しようとして失敗しても、なお A を繰り返しつつ K が達成されることを期待してしまう、ということがよくある。たとえば自販機に 10 円入れてうまく認識されずに戻ってきたとき、戻ってきた 10 円をそのまま再度その自販機に投入するとか。まあそれでうまいこと認識されたりするのでこの悪い癖が直らないという側面もありますが、にしてもこういうときは別の 10 円玉を用意すれば確実にことを進められるのにね。ほかには、インターネットしててあるサイトになぜか接続できないとき、リロードしてみる。変わらない。もういっかいリロード。やはり変わらない。いや、もういっかい……。みたいなことをやる。一回リロードして直らなかったらやめときゃいいのに。この件に関しては、僕がとてもバカなのだという気はする。つまりこの話はとくに教訓的ではないかもしれない。
いらいらしてリロードを繰り返す自分に対しては「落ち着け」と言ってやればまずはいいが、話しかけられない自分に対しては、別の方法をとってはどうか、とか、もうすこし簡単なことから始めては、などと提案したくなる。できないことを(少なくとも今は)できないと認めるのは、けっこう重要なんじゃないかと思いますが。いい身分ですねとかは言われそうだし、「できない」という自己認定が実のところどこまで正確か、という批判はありえる。