抽象的な目標

この問題について、ぼくは最善の形で決着をつけたいと思っている。最適解ってやつか。実感からすれば、起こす行為に A1, A2, ... , An と選択肢があって、その選択に応じて出来事 E1, E2, ... , En が生じる……みたいなモデルには違和感があって、ましてやその結果たちのあいだに価値的序列が付けられるなんてのもやや信じがたいところがある。でもやっぱりよりよい行動の起こし方があるというのは疑いないとも思われる。有り体にいえば、後悔しないように、ということになるんだろう。
後悔っちゅうのはかなり厄介な感情であるように思われる。基本的にそれは取り戻しようのない事実に対して向けられる。過去の事実だからだ。たまに取り戻せることもあるかもしれないが、しかし過去のあの失敗をそのまま取り消せるわけではないから、その事実じたいはいつまでも後悔の種として残っていく。結局後悔の種は消えることがない。しかも人間は後悔したがるものらしいね。欲望、期待、後悔。仏教的には、やっぱり、後悔なんてこわくない!(というかまあそんなもの知らねえみたいな)という境地が望ましいのだろうが、しかしなかなか後悔の射程からは逃れられないように思う。
やらないで後悔するよりやって後悔したほうがいいという。いまいちわからない。最もベーシックな部分から詰めると、やって後悔するよりもやってかつ後悔しない結果を残すほうがいい。また、やらないで後悔するよりも、やらなかったけど後悔もしない、のほうがいい……のか。それは微妙だ。後悔のない人生なんて、という声がする。しかしそれは一般論の罠でもある。だが、確かに、やらないし後悔もしないというよりは、やらなかったことで後悔をした、というほうがなんか人生にコミットしてる感じはするよね。「後悔する」というぶんだけひとつ経験と数えてもいいのかもしれない。でもその理屈でいくと、「やって後悔する」が最強ということになる。だからこの理屈は修正しなきゃならない。後悔するより後悔しないほうがいいに決まってるじゃないか。いや、たぶん、ポイントはそこではない。快適に生きるか否かではない。むしろ、自らの行動によって成功を手にするかどうかがポイントなのだと思う。つまり、後悔うんぬんよりは、やって失敗するよりは、やはり成功するほうがいい、わけである。で、最初の問いは?。これは、結局、「後悔」という同類項を引き算して、ようは「やらないよりやったほうがいい」という話じゃないかな。なんであれ実行すれば、反省のしようもあるしね。
ぜんぜん違う話になっていた。僕は最善の形でこの問題に決着をつけたいと書いた。つまり、適当に流すのではなく、結論を急いでわざと自滅するでもなく、問題の自然消滅を気長に待つのでもない。自らの望む方向に事態をもっていこうと努力するし、でもその定まった方向にこだわることもないと思う。事態が顔を変えてきたら、また別の方向に目標を定位し直すことになるかもしれない。なんかずいぶん抽象的ですね。まあ抽象的な目標設定ですよ。これ、筆者のなかに具体的な目標が描かれてて、それを抽象的なことばで書いてる、という話では必ずしもなくて、もともと抽象的な目標を立ててる、という意識だったりします。
じゃあ、まあ、どうするかね。