僕が実存的な問題に関心がないというのは、うそだ。あたりまえだが。たしかに「なるようになる、なるようにしかならない」というのが僕の生活の基調だが、しかし僕にだって悩みがないわけではない。ただそれがなかなか表面化しない。正面切って取り上げることをしない。それは哲学的思惟における実存的な悩みの軽視だ。およそ考えることはすべて哲学的に考えることだという信念が僕にはある。その一方、悩みとは思考の種類ではない。悩みとは態度の一種である。悩みとは事実問題に対する判断保留をともなう心的状態である。すなわち悩みは現実世界の進展のみによって解消しえる。思考によっては解消しない。
しかし、悩みとは思考によって解消されるべきなにものかではない、それゆえ付き合う価値がない、という判定は一面的だったようだ。悩みは共有される価値がある。いや。僕はわかられたい。いやわかられたいというより先にわかりたい。他者が他者である所以はその不可知性にあるだろうが、また同時に実践的には、不可知なる他者をわかることができるという点に他者が他者として存在している意味があるのだ。そうでないとロボットに話しかけているのと変わらないじゃんね。
まあぶっちゃけ他者の不可知性から由来する不安をいくぶんでも和らげたいという話では一方ある。それは考え方が違うとかいう以前のもっと漠然としたわからなさで、理解可能性とかいうよりなんかもう自分と異なった生活をしてる他者がいるってだけで不安に襲われる。自分のことだってよくはわかっていないのに。
わかるというより受け入れたいのかもしれない。形而上学的には他者は不可知なものだしそれはそれで正しいというしかない。僕が求めているのは理由や根拠ではなくて、その目の前の理解しえない他者、その存在そのものによって僕を不安にさせる他者を、それをそのままの中身で是とすることなんじゃないか。
なんか宗教がかってきた。あとこういうのは哲学史上誰かが言ってた気がするというか言ってておかしくないくらいイケてる意見だと思うので知ってたら教えてください。読みます。