日ッ記

七時に目が覚める。しかしとてもふとんを出る気分じゃなかった*1。さっさと起きて散歩でもしたほうがよかったとあとで気づくのだが――ふとんの中で黙っていれば、連想はのびのびと僕の意識を浸食していく。「キツい」「死にたい」「狂いそう」「発狂する」「ヤバい」「死ぬ」「死ぬかもしれない」「生きていけない」「耐えられない」等等の信念が脳裏を去来する。またしても自分がふだん思ってるよりずっとずっとヤワであることに気づく。事実側では大したこと起こってねえぞ。結局 12 時にふとんを出る。
ごはんを食べ、〆切が近く致し方ないので昨日書いてたのとは別のレポートにとりかかる。しばらく前に準備していた引き継ぎメモがあったので、それを頼りにあまり体力を使わないで済んだ。なんもしてねえのに今日は疲れる。頭が疲れる。哲学は健康人のためのものゆえ詩のほうに親和性を感じた。
消え入りたい気分だったが勤めていて致し方ないのでバイトに行く。今日の俺はずっと頼りなさそうな目つきをしていたはずだ。あと不安な時に唱えるのが般若心経というのは般若心経は即物的すぎて唱えてもしっくりこないので途中から延命十句観音経にした。バイト中もいろいろ思い出す手掛かりはたくさんあったので、朝と同じような絶望的な思いでものを運んだり整理したりする。今まであまりやってこなかった電灯の交換を立て続けに 3 つやったときは、新しいことをするって楽しいなという安らかな感情が生まれましたが、それ以外はだいたい死にたいキツイ人間なんかに生まれるんじゃなかった文明に意味などない世界はなにも訴えかけてこない明日日曜日なので死ぬ俺が破滅型だ俺が意外に破滅型だった!みたいな調子だった。もちろん内心だけですがね。「この本が見つからないのですが」みたいなときはくっきりていねいに応えておりましたよ。
破滅型だったので電車の中ツイッター閉じざまに「みんな死ねばいい」と内心で吐いたこともありましたが、べつにそれはなにか含意があるわけじゃなくて、鼻歌みたいなものだと考えていただきたい。あと帰りぎわジュースを買おうと思って財布を開いたら 10 円玉がなくてなぜかそのことでごくわずかだけ泣きそうな気がかすめた。いや 100 円玉はたくさんあったですよ。さっさと泣ければラクなのに、とは思わんでもない。
勤務中、「美しく生きたい」との着想が降ってくる。しっくりきた。めいっぱい勉強したり自分の能力を最大限に伸ばそうとしている人をみると劣等感がわくというか俺はこの生活を続けていていいのだろうか……(いや、いいわけがない)くらいまで自動思考が走るのだが、でも、俺のいまの生活が満足いくものでないとしても、だからといって上記のような自己実現に向かうべきだとは必ずしも思えない。僕が彼らと同じように生活できたとして、獲得されるのはせいぜい「彼らと同じようにできている」というある種の安心だけではないだろうか。問題はどういう生き方が正しいかではなくて、倫理的にあるべき生のモデルがあるわけでもなくて、ひとえに「美しく生きる」ということなんじゃないだろうか。……煮詰まってない考え方なので、あまり展開させすぎないことにする。
それで帰ってきて、ゆっくり夕飯を食べて、ここまで書いた。電灯を直視する時間がやや長かったせいか、うっすら頭に鈍痛がみえる。

*1:より正確に言えば、ほとんど世界に対するあてつけのような気分だった――ふとんなど出てやるものか、というような