「思ってしまう」

「〜と思ってしまう」という言い回しがあって、僕はこれがきらいなのです。
この言い回しは、言及対象を自らの手を汚さずに貶めるときに使われます。
「「○○とは何か」のような問い方をマジメにしてる人を見ると、この人はまともな哲学教育を受けてこなかったのだろうと思ってしまう」
思ったのはあなたです。思わされたのではない。ところが、このように書くと、自分がもった感想が、相手の目に余るほどのありさま(この場合だと「○○とは何か」と問うていることのあまりにもなひどさ*1)に依拠して、それに触発されて自分の意思には反して生ぜしめられたものであるかのように聞こえる。
しかもそこにはエクスキューズがあるんですね。「失礼なことだとはおもうけど、こう思ってしまったんだ、ごめんねでも思ったことは事実」というような響きがある。人に意見して行動を変えさせたいのだが、直接にそうは言いません。「自分はこう思うがあなたに命令はしない。あなた自身で気づいてあなたが自発的に変わってください」という態度です。紳士的っちゃあ紳士的ですが下手に介入して面倒なことになるのが嫌なだけではないですか?
思うだけなら無害ですが、「殴ってしまう」などと置き換えるとこの話法のずるさがわかると思います。
「電車の中で大音量で音楽を聴いている人がいたので、僕は殴ってしまったよ」
殴るのは不本意だった。自分でやろうとしてやったことではない。だから俺が殴ったことで責められるいわれはないむしろ俺に「殴る」という汚れた行為をなさしめた音漏れ野郎こそが裁かれるべきである。
どうも、人間、自分がよいと思うことだけを、自発的に行う、と思われているようです。自発的に行ったなら、それは自分がよいと思っていることだ。自分がよいと思っていないことをしたとすれば(「○○して“しまった”」と言えるとすれば)、それは自発的にやったことではない――すなわち、外的な力に動かされてやったことだ。と。
この原理の是非はここでは問いません。ただ、「○○してしまう」となんでもかんでも人のせいにするのは、だんだんと人間の主体性(主体性とは何か?)を奪っていくと思います。主体性という自分だけの問題で済むならいいですが、これは同時に「責任を持つ」というふるまいから降りることでもあります。「思ってしまう」話法を多用している人を見ると、この人は自分では責任を引き受けるのが怖いのかなと思ってしまいます。


余談:たんに「思う」というだけでも責任逃れは発生しているのですけどね。たんに「 P 」ですまさずに「私は P と思う」と発言するとき、そこには「※個人の意見です」という注意書きがくっつく。つまり、「間違ってるかもしれませんが」というエクスキューズだ。「間違ってるかもしれないけど、一介の素人の意見だから、許してね」ということだ、さらに踏み込んで言えば。
個人の意見を口にして、「それは違うよ」と指摘されても、「いや思っただけだから(別にマジで主張したわけじゃないから)」と議論から逃げることができる。それは、間違いが自分にとってダメージになることを回避する態度であり、それゆえ、真理を求める態度から一歩引いて、無責任に言いたいことを言うための話法だ。きちんと間違って痛い目にあわないとひとは学ばない。
これをなくすのは心理的に難しいし僕も完全に取っ払う気はないけどね。

*1:いや、そこまでだとは実際は思ってないけど。。