2011年

2011年はじまりました。前回ああ書いたわりには正月の新しい気分を呼吸してもいる私です、日記を書きます。考えてみれば外界の雰囲気に自分の内面が影響されるのは自分のふだんのありようからみても当然のことで、論理的必然性、蓋然性、真、ということが私たちの大部分を司っているわけではない。むしろそれらは、身体的な実感に根拠を与えたり、背骨をつけて丈夫にしたり、他者とのコミュニケーションを可能にする形式を与えるものなんでしょう。最後のとこは野矢茂樹さんが言っていたよ。たしか『他者の声 実在の声』で、「論理とはなにか」みたいなタイトルのエッセーだったと思うのですぐ見つけられるはず。論理学の話だったっけかな。
今日は 20 分ほど近くの河原を散歩した。散歩ってあらためてすばらしい。ふたたび人生が動き出した気がした。正月は毎年晴れててよかった。晴れた河原を散歩して、人通りの少ない静かな世界に浸って、人生が動き出したと感じた。家にいて行き詰まりぎみにラテン語の変化を練習するばかりは、停滞の時代だ。こういう表現、動いた、とか、停滞、とかは、端的に「おもしろい」「つまらない」で代用できるかもしれない。そのかぎりでこれは必然性のない表現に見えるかもしれない。だがどちらかというと、この静・動のいいかたは、それが分かりのわるい比喩だとしても、自分のなかではしっくりくる。
人生が動くというのは、つまりは新しいものを得る、経る、ということなのだと思う。これは客観的な新しさではなくて、主観的なもので、ベルクソンの言ってる(自信ないが)質的違い、自分にとっての新鮮さだ。どうも比喩的な言い方になってしまうが、自分のなかには流れがあって、ひとつにはその流れにしたがって行動できると気持ちがいいのだと思う。でもそれは好きなときに好きなことをする、というのとも少しちがうらしい。雑な整理だとは思うけど、その内なる流れと、もう一つ、「長期的に見て」という視点にもとづく自己制御もまた必要なのだろう。ダメ。こう書くとすごくのっぺらぼうでためになりませんね。具体的な例がでてきたときにまた書こう。