「醜い真実より、美しい嘘がいい」なる主張について。
このふたつをそもそも比較できるかどうかがまず問題となる。なぜなら:
ここで登場する形容詞と名詞をひろって次のような集合をつくり、
(美しい,醜い),(真実,嘘)
このふたつのデカルト積によって可能な四つのアレができる。
A: 美しい真実
B: 醜い真実
C: 美しい嘘
D: 醜い嘘
ごく自然な直観により、美しいものは醜いものよりよく、真実は嘘よりよい。また、他の条件が同じならば、ふたつのものの比較は互いに食い違う一点によっておこなわれる。つまり、
B

新しさと新鮮さ

古いものが新しいのはある意味では当たり前だ。懐古趣味はじつに素直な嗜好であると言える。なぜなら、古いもの――たとえば 20 年前のもの――は、今から 20 年の時間的隔たりがある。今から 20 年ぶんずれたものであるわけだ。それに対して、新しいもの、これから出るものは、今との時間的隔たりは限りなくゼロに近い。言いかえれば、ある意味で、新しいものは最も新しくないものでもある。
とはいえ新しいものが新しくないなどというのは無が無化する的なドヤ顔の言葉遊びに聞こえなくもないので、すこしことばを選び直したい。それに、直観的に言っても、新しいものはやはり新しい。つまり新鮮なものでありうる。堅実に考えれば、それが登場したときと今との時間的隔たりと、その新鮮さが比例するわけでは必ずしもない。ただし相関関係はある。
新しいものが新鮮でないのは、それが予想されるときだ。容易に予想できる、定型的な作品が出るときだ。そして、最も定型化された作品が出やすいのが、「次の瞬間」だったりする。 20 年前に共有されていた定型はそもそも今の定型とずいぶん違う形をもっている。だから定型的な作品でも新鮮に思える。そして実際新鮮なのである。もちろん 20 年前の作品にばかり親しんでいたらそれも新鮮には思えなくなってくるけどね。


★結論★
昔のものを見て暇をつぶすと同時に価値観をリフレッシュするといいと思う!

日記

授業が二週目に入り。それより性行為したいなあと生きてて気になる程度に思う昨今です。セックスと言わなかったのはそういうの口にするの慣れていないから。でも性行為よりキスがしたい。そうしたことを朝の電車の中とかで思う。図書館で演習の予習をしてるときに想念がしのび込む、君とのこれから。むしろ無関係を媒介とした関係。関係の不在という半関係。存在しないこれからに思いを致し、起こったかもしれない可能な事態にコメントを加える。べつにそれは性的なこととは限らない。
でも授業の予習が主な関心事です。あと卒論のテーマ。いや嘘。すこし嘘があって、ここ数日は鬱鬱とした基調で暮らしていたのだった。でもまあプラクティカルには予習のこととかに関心が向いちゃうので結局のところ学校という制度に適応してるんだなあと思った。社畜ならぬ学畜。心配ですね。俺のことだぞ。でも取ってる授業は興味あるしすべてが俺の利益になる。べつに自己犠牲はしてない。ただ今年度から図書館司書の資格を取るための授業もとっていてこれには受けたくない授業も受けなければならぬので、そして明らかに自分と相性が悪い授業も若干数あるのでそれは苦痛。でもそれとこれとは別だよね。
予習が終わんないんだけど自動車教習所が引き続いてて、だから休み中にガッと受講しためとけばよかったのにというわけですがこうなることはもうわかり切っていたというかそういう予測を立ててしまうから実際になまけるんだけどさ。まあ免許はゆっくりととっていくつもりだったので不本意ではないんだけど、大学の予習がけっこうアレなんか終わんないというか毎朝 1 限から出てるのでお昼以降時間は空いてるんですけどそれでも意外と終わらない。それに昼は眠い。シエスタ制度を導入すべきかもしれない。

今日の成果

桶の中に
山びこ一つ
改選された湿度の裏に
とけ始めの木こりの影が
せわしく距離をつめて
置き場のない感情の尻ぬぐいをしている


読み切れない音
潮騒
山吹色した海綿体が目の前に立ちはだかり
扇形に切り取られた視界を照らしている
霊魂のおさがり。


冥界によろしく、と言って
消えたぼくの
目の玉の眠る
山の中に
余ったせんべい二枚
波打ちぎわに浮かべて
ふやけるのを見てた
予想の範囲内。


こぼれ落ちる速度で何ができる?
何ができた?
目覚めはむしろ良く
耐性の向こうに鬼の顔
四つ葉の頽落


煙突の向こうに隠れているもの
先細りの快楽
よばれないときにくる
峠の錯乱
唖になったコーヒー
機種変更の呪縛へ
なだれ込んでゆく
とんかつソースの味
etablieren
会話は続く
絶え間ない
媚びの表情
連続性の大地のうえに
旅行く影は魚のうろこ
沖合に野蛮
とろに鮭
健康の内側にうごめく
喧嘩っ早い臓器どもよ
レクチャー済みだ しばらくは
エストニア オリビア
ラグランジアン
吐き出せ 満たされるまで
暗闇の欲だ
よせばいいのにの匂いだ
胃の中に入ったものは一生出てこない
ならば いっそ。


とび職の気持を味わったことがあるか
地中から這い出てきたツバメのように
湿気のある五月の道を
通ったことがあるか


かつて底なしだったバナナの皮
いまでは線香の匂いが鼻にしみる
取り替えても もう 今は
自転車にも乗れるから。
背丈二メートルほどもある
草を分け入って
やさしい目をしてる
ワニのような口をしてる
演じきれない午後
くつろいで痛がってる
ところてんみたいに
スリの気持がわかる
鮫の興味の先端で
ヨブ記を開いた


逆再生のめだかの群れ
逃走する中で
ひろった言葉に I love you
味噌の味のする毎日を生きていた
あなたに幸ありますように!
連濁の果てに見落した
もう一つの世界へ。

日曜日だし面白いことがないですね。学校来てないし、人に会う予定もないし――ほんとうはあったのだが、卒論関係の書類を書くためにサボるのである――。人に――家族じゃない同年代くらいの知り合いに、会って、話したり話さなかったりする時間は、自分にとって確かに重要なものであるらしくて、大切にしてるものではあるらしくて、そいつが欠けると不安になる。
でも、いつもの環境――そこにいる時間が長い環境――から投げ出されたとき不安になるのは、その環境がどんなものであるかとは独立なのではないだろうか。どんな環境であれ、いつもいる場所から離れたら不安になる。勝手がわからなくて途方に暮れる。なにをすればいいのかわからない。いや、わかっている。卒論の紙を書く。そのために本を読む。わかっている。けどわからない。どうして卒論の紙を書く気持ちになれるのか。本を読む気になるのか。そんな簡単なことさえ忘れる。
面白いことはいくらでもある。はずだった。微積分学の教科書を読み進めてもいいし、音楽を聴いてもいいし、こうして文章を書いてみてもいい。俳句を作ったりもできる。なれば、なぜそうしないのか。なぜそうしようと思わないのか。それら種々のアクティヴィティに期待できないというわけではない。だが期待できるというわけでもない。ここで言っている「期待できる」は、リアルな「期待できる」で、その微積分学の本を開いて眺めてわくわくするわけではない――いや、実際、眺めてみればわくわくするのかもしれない、だけど、その本を開いて眺めてみるまでにいくつかの障壁があるのだ。その本のことを思うだけで数学の勉強をやりたくなってくるならいい。だけどならない。
とかなんとか書き連ねてくるとわからなくなってくる。やっぱり俺は数学をやりたいのかもしれない。気分とはそういうものだし、むしろそういうものを気分と呼ぶのだし、感情のリアリティが気分に属するものだとしたら、なにがリアルかも目まぐるしく変わっていく。「君は数学が好きなのか」。そう問われて、「そうです」と迷いなく答えられないとしたら、それは、その答えがリアルであることを要請されているという思い込みによる。きっと思い込みだ。「君は哲学が好きなのか」「そうかもしれない」。哲学についてはもう好きというより生き方に組み込まれてしまっている観があるので、好きとかどうとか問う段階を過ぎていると思う。でも確かに読む本は哲学に関するものがたぶん九割を超えているし、つまり「好きかどうか」で問われているのはいまの自分の心持ちや気分などではなく、傾向性のことなんだろうと思った。好きという心的状態がいま手前の中で生じているかではなく、もっと観察可能な、だから俺は勉強している人扱いされているのだろうか。印刷された紙の表面をただ眺めているだけかもしれないんだぜ。そこでほんとうに「読書している」かどうかを確かめるにはまた別のテストにかけなきゃならなくて、本の要約を書かせたりするのかもしれない。でもその要約が適切かどうか判断できるにはその本の内容に通じている人でなくてはならなくて、その本の内容にその人が通じているかどうか判断するのは誰なんだ? それはつまり業界人の集団だ。互いに互いが業界人だと定義しあう。

どれ、日記でも

人の目を見る。明瞭にことばを発する。ということ。人の目を見て話すということ。話さなくてもいい。人の目を見ることで、場に参加する。
視界のかたすみで状況をチェックする。耳から情報が入る。頭の中で処理する。ラジオを聴くように。
話すときは明瞭に。明確に。明示的に失敗しないとひとは学ばない。
焼酎水割りとバニラアイス。
ここ数日、「居るだけ」のかたちで場に所在することが増えている。新歓の反動。そう謂わば言える。でも、こんなのが平常運転でいいかどうか。不満だ。
べつに無理して話そうとは思わない。だが、場に参加することは、その場に所在しているなら、すべきだろう。それがあるべき姿であり、行儀であり、ようは一番ぴったりくる「型」なのだと思う。
視線の戯れは、全くの他人相手の方がうまくできたりする。外を歩いてる時。電車に運ばれてる時。
明確に発声することは、他者の訴えかけに対してフィードバックを返すことでもあるし、というか「うん」でもなんでもいいから、いや、把握が追い付いていないがそれも目線を合わせることと同種だろ。
場に出た情報は、場の中で処理する。自分の頭の中ではなく。

物欲しそうな顔するんならはっきりそういう顔しなきゃだめだね。自分が「物欲しそうな顔してる」と自己認定してるのは、そう読もうとすれば読めるという程度の明白さで、それは物欲しそうな顔してる気分になっているだけで外からはそうと扱われない。行動には反映させないけど自分は願っている、それを相手が認識することを、そして相手が自分の願いを察して行動してくれることを願う、というまどろっこしい関係性。