ハトポッポ / The ピーズ

二日酔い。いい年して二日酔いか。おかしいくらい笑い、それから酒を飲み続けた。深夜まで。新歓なのになにやってんの?
結局、ここにきてみると、自分がいったい何をしたのか、何を達成したのか、ほとんど自信がなくなってくる。
まあそんなものではあろうと思う。入学当初から較べるととてもとても遠くまで来たような感慨を抱くが、でもそれって自分の視界にべったり密着しているせいで歩幅が大きく見えるのだという気はするし、進歩したと映るのは単に周囲の環境が変化して相対的にパフォーマンスが向上しただけだったりする。もちろん、そればかりではないとも言いたいが。いや、むしろ、環境の変動にともない縁起的に生じたかりそめのパフォーマンスの向上を経て、ひとはすこしずつ進んでいくのかもしれん。
この期に及んで学んだのは、処理しきれない量のアルコールをすでに摂取していたとしても、さらに酒を飲み続けることは別に困難ではない――身体レベルで拒否されることはないということである。まあだから二日酔いするんだって理屈なんだけど。けっきょく心の眼で見極めるしかないですね。
気づくとあの人が自分の顔をのぞき込んでいるイメージが一瞬かすめて、夢から覚めた。

nikKKI

ツイッターに書きたい気も起きないけどとりあえず日記は書いとくかーと思う。思わされた。
今週は大学の新歓、新入生歓迎なんちゃら活動をやっていて、まがりなりに参加していて、立ってる時間が長かったりわりと声張って話す機会が多かったりして眠い。帰りの電車は眠い、大学のキャンパスを出たら眠い、心地よいだるさ、大した実績出してねえのに心地よい疲労なんて感じちゃっていいのかと俺の中の倫理性が顔を出すのだが要はおしゃべりするってとてもいいことなんじゃないかと思った。眠いけど電車の中でいわゆる寝落ちするわけでもなくて、ただ読書の精度は落ちる。
尋常ならざるテンション、つまり緊張。高いという意味ではなく通常と対比された意味での異常。自分は自分が緊張してることに気づかないことが多々ある。ここでもまた自己欺瞞的、抑圧的なのかなあと思う。
俺がコミュ障だ道を開けろと自負しつつも四年生にもなればそれなり(それなり以下だが)に場に対応できるようにもなり、まあ状況にそうとうていど助けられつつも三年前よりはまあだいぶ、かなあと振り返る。
そう、目覚めてからふとんの中でよどんでるときの感じに似てる。

アニメ見てるよ

引き続きエヴァンゲリオンを見ている。日に DVD 一本、 4 話ずつ。このペースでいくと授業始まるまでに劇場版まで見終わる。と書いて Wikipedia 見たら劇場版って最近出たやつ抜かしても 3 つあるんですか? まあいいや、それはとびとびで見てもかまわないし。で、こう継続的にやってると、てかビデオ視聴に費やしてる時間がおそらくあきらかに読書に費やしてる時間より長い疑惑が。あり。でもまあ仕方ないといえば仕方ないのである。次のスライドをご覧になっていただきたい。

ざっくりとしたスケッチとして、たとえばこんなふうに思い描いてみる。

  • 具象度――われわれの生きている世界との近さ

映画>アニメ>漫画>小説>詩>音楽

  • 入りやすさ

映画>アニメ>漫画> ……

かようにアニメは易行道、といいますか受け手にやさしいメディアでありまして、受け手の興味の深さ如何、動機づけられている程度、などなどに影響される度合いが小さく、つまり受動的態度での鑑賞を許すメディアです。変な話ぼけっとしててもアニメの筋は追える(と書いたけど俺はあまり追えてないかもしれない……)。それに対して読書を考えてごらんなさい。すこしでも気を抜けば、前の段落に何が書いてあったかも忘れてしまいます。僕が迂闊なのでしょうか? 言い忘れたけどこの“親切さ”はもちろんメディアに絶対的に依拠するわけではなく、ものによるよ。エンターテイニングな小説だったら「引き込まれてどんどん読み進む」ようなこともあるんだろうし。僕が読んでるのはだいたい哲学の専門よりの本だし。トピックに対する読み手の知識も理解度に大きくかかわるし……。
というわけでひとしきり言い訳を垂れ流しましたが卒論のテーマ決定のめどが立ちません。やだな、無難にニーチェとかにしとけばいいんだろうか(無難に?)。「このへんかな」と選んで読んでみてるのがなんかこうパッとしないというか、いわゆる古典というほどの古典ではないので――あと百年二百年したら名前が忘れ去られそうな人なので――示唆に満ちてるというほど満ちてはいないし、自分の問題意識にぴったりくるかといえば今読んでる箇所はそうでもないし、――いやもうすこし進んだら面白くなると期待して読んでるんだけど、――そしたら早いとこ進んじゃったほうがいいんだけど、――古典ではない、かといって最新の hot な現在進行形で争われてるような話にコミットしてるわけでもないし、……みたいな状況で行き詰まり雰囲気です。それ、ああた、考え方根本から変える必要あるんじゃないの、とアドバイスされるのが自然ですよね。
困ったのう。読書するか。


てか、もともと書こうとしたのは継続的にエヴァンゲリオンに触れてるので「残酷な天使のテーゼ」が頭で流れるようになったとか「あんたバカぁ?」と気に行ったセリフを口にしたくなるとかそういう“思考が作品に染まっていく”ような体験を実にひさびさにしつつあるのだってことだったのだけども。確かに気持ちいいもんですな。気持ちいいだろうと思いつつも避けていたんだけどね、こう言ってみれば政治的なスタンスから。国の政治じゃなくて個人として。僕はあまのじゃくなのでアニメ見てマンガ読んで育つみたいのはやだったんですよ。だからニコニコ動画も登録してこなかったし。そんな態度をとり続けてきて、でも近頃はあるていど人格も確立されてきたしそろそろいいだろうって手に取ったという面はある。

疑念と不安

昨日に引き続き、『新世紀エヴァンゲリオン』の DVD を視聴する。いまから。そう思うと見たくない気持ちが出てくる。遠足の当日になって行きたくなくなるのと似てる、かもしれない。
ものひっっっさしぶりにアニメというものを、ひいては映像作品を見ることになったが、昨日はとてもおもしろく視聴した。それだけに今日見るのが怖いという面があるのだろう。「エヴァンゲリオンを見ることはおもしろい」という、せっかく確立した認識を崩したくない。それはこれからおもしろくなくなっていきそうだ、という意味合いではない。現実的にはどうあれ、いちパーセントでも失速する見込みがあれば、その先を覗くのをためらう。
最高の作品が最高でなくなること、おもしろい度合いが少し下がること、を、功利主義的な角度から「悪」と断じているわけではない。これからの視聴体験が世界の「おもしろい」を減じる可能性があるからためらっているのでもない。それよか、一度確立された認識が改訂される可能性があることが問題なのである。信念、固めたいよね……。
世界の名著 59 パース・ジェイムズ・デューイ (中公バックス)
偶然・愛・論理
というわけでパースです。「信念の固め方」。人間、わからないことを見つけるとその不明をなくしたく思うもの、らしいです。そしてその不明をなくすために「探求」をはじめます。つまり人間は信念を固めようとする動物だってこと。疑問とその解消の運動。この構造は万人に共通で、ただ信念の固め方にはいくつかある。いちばん原始的なのが「固執の方法」で、これは一度 A だと思ったらその判断をかたくなに守って変えない態度ですね。いくら不利な証拠が出ても、聞き入れずに A で押し通す。意外とやりがちです。パースはこの固執の方法を含め四つの方法を紹介して、最後に「科学の方法」を出して、これがいちばん合理的な方法よって言って終わる。
でいま自分がとってるのはこの固執の方法に近いものだなと。固執してる人は、自分の信念が覆されるような証拠を出されても無視するけど、そこまで無神経ではいられない誠実でありたい僕はそもそも証拠が出るのを防ごうとする。それが DVD を見るのを避けるという行動に例化されています。おもしろいと思っていたものが、実はさほどおもしろいものじゃないかもしれない……という可能性が出たとき、それは不安を生む。疑念は不安を伴い、それゆえ探求とは不安を解消しようとする運動でもあります。でもそもそも探求する必要が生じなければ不安をたとえいっときでも感じずに済むわけで。


とか書いてたらやっぱり三十分とか経っていた。さっさとビデオ見ます。それと、上のパースの紹介、軟派な入門書みたいにデフォルメされてるので気をつけてください。

なにかを断念する感覚

なにかを断念する感覚に耳を傾ける。勉強の合間にツイッターをチェックすることを断念する感覚だったり、外出ついでに大学に立ち寄ることを断念する感覚だったり、それはする。
断念する感覚は、あきらめる感覚ではない。断念するときは、いつも魅力ある選択肢を断念している。あきらめるときは、いつもリスクある選択肢をあきらめているのである。言わなきゃいけないことを言うのを僕はよくあきらめている。絶対に、今、「言わなきゃいけない」というわけではない、と考え直してあきらめている。まあそれはそれとして。
断念されるものは、それを実行することに基本的にリスクはない。あるいは心理的抵抗がない。ギターを弾くことで自分の人間的価値がおびやかされる心配はない。ツイッターを見ることは無害だ。対して発言することは多少なりとも危険を冒すこころみだ。リアルでも同様。話を聞きに行くのは断念されることであり、話に入ることはあきらめたくなることである。
積極的にリスクをおかせとは言わない。ただ、ノーリスクなものを減らしていくことによって、リスクあるこころみに身体が向かっていくということはある。リスクをおかすことがそれ自身でよきものだと言うつもりはない(単にスリルが欲しいわけではない)が、結果的に必要になってくることだとはいえる。
あることをするのにリスクがあるということは、そのことに恐怖を感じることが含まれる。あることに恐怖を感じるということには、そのことが自分にとって未知であるという事実が隠れている。つまり未知なことに人間は恐怖し、ためらい、リスクを感じる。でも、便利に生きていくためには世界の探求を行わなければならない。リスクをおかしながら未知の領域をすこしずつ減らしていくこと、それが成長することなのだと思う……。成長なんてことば使いたくない*1
断念する感覚は、生活がよい方向に向かっていることを教えてくれる。


なんか最近例示してて思うのだけども俺は起きてる間ツイッターとギターしかやってないみたいになってますね。すいません。

*1:この使いたくなさは、 VIPPER な語彙を使いたくないことと類比的である。ようするに僕は日常的に「成長」ということばを口にするようなタイプの人は好きでないし、同様に VIPPER 的なものにシンパシーを感じるでもない。好きな文化圏で流通してることばは使いたいし、そうでないことばは使いたくない。ようするに言葉遣いによって文化圏に属する、ということを意識しているのだと把握してほしい。成長ということば自身には咎はない。

どうしよう、“動ける”のが前提になってる(なってきてる)。三年くらい前の日記をざらっと見ていただけるとわかると思いますが、まえの僕のテーマは「いかにして動けるようになるか」だったのです。

仮説2

目に見える結果(二時間勉強した!とか)を出すのも大事だが、記憶に残す(勉強した気になる)のも大事。でもやっぱり、取り組んだのが一体何か、ということが一番大事だろう。
何をして過ごすと寝る前いい気分になれるかというと、 (1) やるべきこと、 (2) やりたいこと、の二つであろう。さらに、 (1) (2) いずれに関しても、心から素直に「やるべき」「やりたい」と思えるようなものがよい。逆に、感覚的には遠いけれど理屈で納得して「やるべき」と思えるようなものは、その納得が深いものでなければ、有意義感にはつながらない。「のちのち役立つだろうからなんとなく TOEIC の勉強をする」みたいな、おおざっぱな・ぼやけた必要性では、寝る前に「俺なにしてたんだろ」という反省が波寄せてくるにちがいない。
それから、突発的にやりたくなったことを無秩序にやり散らかすスタイルも、夜の絶望感のもとである。それは「前に進んでる」感じが気分に大きく影響するからである。頭の中にはある程度のビッグピクチャーがあって、そのパズルにうまくはまるようなピースを運んでいかなきゃいけない。俺だったら卒論のテーマになりそうな本を探して読むとか。今は夏目漱石の小説を読んでもあまり意味がない。ようは「する理由のあることをしろ」ということなのか。ギターを弾くのは気持ちいいが、ミュージシャンになろうとしているわけではないので、あんまりだらだら続けると「こんなことしてる場合じゃなかった」という気がしてくる。